こんにちは。大関です。
読者の皆さまは歴史は好きですか?
男性なら好きな人も多いと思います。
女性でも戦国バサラなどが火付け役となって、好きな人も増えていますよね。
歴史が好きな人は主に大活躍した著名な人物を好きになるという人が多いと思います。
しかし、歴史上の人物の中でも特に武将が持っていた武器に今回は注目していきます。
歴史の本を読むと、武将が持っている武器はどれも重く、その分破壊力も大きいのですが、こんなものどうやって振り回してたんだ?と思うようなものもあります。
WORKOUTをしていないと中々振り回せませんね。
そんな武器の中でも日本刀は製造技術の高さから薄くて軽く、切れ味も鋭く作られていますがそれでもずっしりとした重さを感じると思います。
今回はそんな日本刀の中でも呪物や呪われた刀と言われる「村正」について紹介します。
徳川家に仇なす妖刀村正
村正は1300年代から1600年代半ばまで活躍した刀工一族の名前から名付けられています。
愛用した人物は江戸幕府、初代将軍の徳川家康とその家臣の三河武士達、豊臣秀吉の甥であり関白にもなった豊臣秀次などがいました。
また芸術品としての価値も高く、刀剣学者の本間薫山は村正を『室町時代を代表する名工』と褒め称え、初代総理大臣になって伊藤博文は村正を好んで蒐集していたようです。
そんな村正が徳川家に仇なすと言われている理由は、まず徳川家康の祖父である松平清康が家臣の阿部正豊に村正を使って殺害されてしまったことから始まります。
そして徳川家康の父の松平広忠も側近の岩松八弥(はちや)という人物に村正の脇差で刺された傷が原因で亡くなったと言われます。
さらに徳川家康の長男の信康も織田信長からの命令で切腹させられ、その時の刀も村正と言われています。
徳川家康本人も大阪冬の陣で真田幸村(信繁)に攻められて自害寸前まで追い詰められますが、真田幸村の愛刀は千子村正(せんじむらまさ)でした。
ここまで立て続けに徳川家の不幸に村正が関わると、呪われていると思ってしまいますが、近年ではその呪いの理由が解明されてきています。
まず、村正は刀剣の中でも品質もよく、大量生産されていました。
なので所持している人数の絶対数が多かったということです。
今でいうところのUNIQLOみたいにみんな持っているということですね。
特に徳川家康の居城の三河と村正の生産地の伊勢は地理的に近く、家康の近くには村正を持っている人が特に多かったようです。
持っている人が多ければ、人を切る際も村正が使用される確率も上がるので徳川家に仇なしているように見えていたということですね。
また当時の娯楽の歌舞伎の中で村正がよく使われており、実際に起きた『𠮷原100人斬り』を題材にした【籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)】という演目で使用され妖刀としてのイメージを確立したのではないかと言われます。
呪物には人が持つ思い込みが引き金になってそう呼ばれているものも多いと思います。
心も体もWORKOUTをしていきましょう。