出典:日刊スポーツ43人が参加/12球団合同トライアウト詳細
こんにちは。大関です。
今回は野球の話題です。
野球はプロとしての活動年数の平均が9年と厳しい世界です。
毎年プロ野球の世界に夢を持って入ってくる選手もいれば、解雇され、やめていく選手もいます。
しかし恨み言を言わず、活躍できなかったら自身のせい、雇ってくれる球団がなかったら自身のせいとして去っていきます。
それはプロ野球という特殊な状況だからということもありますが、ちゃんと選手一人ひとりが厳しい世界だということを覚悟しているからです。
もし、ちゃらちゃらしてプロの世界に入ろうとして解雇されたら、プロ球団の悪口をネットに匿名で書き込んだりする選手がいると思います。
しかしそんな選手がいないのは、それぞれ覚悟を持ってプロ入りしているからということがわかります。
そんな厳しいプロ野球の世界ですが、解雇する側もあれば、『合同トライアウト』という復活の場もあります。
今回は『合同トライアウト』から復活して活躍した「宮地克彦」さんを紹介します。
尽誠学園~西武ライオンズ、ダイエーホークスまで
宮地克彦さんはプロ野球選手としては外野手として活躍しましたが、元々は投手として尽誠学園でエースで主将として活躍しました。
そして1990年にドラフト4位で投手として西武ライオンズに入団します。
入団1年目にいきなり開幕1軍に抜擢され、首脳陣の期待は大きかったようです。
しかし、調子を崩し、投手として中々芽が出ない日々が続きます。
そして1993年に元々センスがあった打撃と、投手ならではの強肩を活かして外野手に転向します。
西武では代打や日替わり3番打者という役割でスーパーサブとしての活躍をしました。
しかしレギュラーを奪うには至らず、膝のケガとチームの若返り方針で2003年に戦力外通告を受けます。
オフシーズンには横浜、近鉄、ロッテの入団テストを受けますが不合格。
そして合同トライアウトにも参加。
しかし、獲得を名乗り出る球団はありませんでした。
このまま台湾球界に活躍の場を移そうとしていた矢先、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)が獲得に動きます。
ダイエーホークスは合同トライアウトで宮地克彦さんを評価していましたが、合格とまでは思っていなかったようです。
しかしレギュラー外野手が移籍してしまい、急に外野手を獲得する必要があったということです。
なのでこのタイミングでなければ宮地克彦さんは日本国内には活躍の場がなかったわけですね。
そしてダイエーの1年目、シーズン途中からレギュラーになり、規定打席には到達しませんでしたが、打率.310の活躍。
翌年も打率.311の好成績を残し、初のオールスターゲーム出場、そしてベストナインというタイトルを獲得しました。
一度は合同トライアウト不合格まで経験した選手が、オールスターゲームやタイトル獲得した例はかなりレアで『リストラの星』と呼ばれました。
もしも合同トライアウトの段階であきらめ、ネットで文句ばかり言っているような人になっていたら、後の宮地克彦さんの活躍はなかったわけです。
かっこよく生きていくためにもWORKOUTをして心も体も鍛えていきましょう。