こんにちは。大関です。
野球選手になるためにWORKOUTをしている人もいるかと思います。
そして野球選手になるためには、幼いころから野球を一筋に頑張っていたのではないか、というイメージを持っている方もいるかもしれません。
実際にそういうイメージからお父さんが息子につきっきりで指導し、ココリコの遠藤章造さんは「机で勉強するならバットを振れ」と言われていたようです。
現在はコミュニケーションを活用するお笑いの世界で活躍し、人生は何が起こるかわからず、おもしろいものですね。
そして、プロ野球選手として活躍した人の中にも意外な経歴を持つ人達がいます。
今回は、過去に陸上の短距離選手として活躍し、プロ野球に『代走専門』として契約した「飯島秀雄」さんを紹介します。
異色の経歴 飯島秀雄さんとは
飯島秀雄さんは1944年1月1日に茨城県水戸市に生まれます。
元旦生まれということは堂本光一さん、ジミー大西さん、そして大関の大学の友達と誕生日が一緒ですね。
1965年にブダペストで行われたユニバーシアードで10秒1という当時の日本記録を出して、金メダルを獲得します。
これほど昔に日本人が9秒の壁に迫っていたというのは驚きですね。
ちなみにユニバーシアードの100mで日本人金メダリストが次に生まれるのは2013年まで待たなければなりません。
これだけの短距離の足の速さがある飯島秀雄さんなので、大会の後も足を活かした仕事をしたいと思っていたようです。
そして1968年のドラフト会議で当時のロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)にドラフト9位で指名されます。
この時、飯島秀雄さんはコーチとして契約すると直前まで思っていたようですが、実は選手契約だったということを後で知らされたようです。
これにより、プロ野球で初めての『代走専門』の選手が誕生します。
飯島秀雄さんは中学の頃に野球経験があり、走塁くらいできるだろうと思っていましたが、プロ野球の壁は甘くはありませんでした。
プロ野球選手として117試合に出場し、盗塁成功が23、盗塁失敗が17、牽制でのアウトが5というパッとしない成績で、実働3年で引退してしまいます。
しかし、ランナーに飯島秀雄さんがいる状態で投げる投手は盗塁が気になって仕方ないらしく、飯島秀雄さんが塁にいる時はチーム打率が.424、チーム出塁率が.494と打ちまくりました。
また当時は人気のないパリーグで飯島秀雄さんをひと目見ようと、ロッテの球場にお客さんがつめかけ、集客は前年の倍になります。
プロ野球選手としての成績は華々しくありませんが、人の目を引く経歴によりチームには大きく貢献した選手でした。
様々な経験が自身の夢や未来に繋がっていることはあります。
経験する機会があることをめんどくさい、などとは思わず、積極的に取り組み、さらにWORKOUTをしていきましょう。