出典:Wikipedia アレキサンダー・セルカークのページ
こんにちは。大関です。
文明から離れた生活をすると、自然とWORKOUTができると思います。
魚をとるために海に潜ったりしていれば自然と体は鍛えられますよね。
しかし生きていけるかわかりません。
そこで「アレキサンダー・セルカーク」という無人島生活から帰還した男の話を紹介します。
過酷な無人島生活を送るアレキサンダー・セルカーク
アレキサンダー・セルカークは1676年イギリスで生まれました。
彼の家は革職人をしており、敬虔なクリスチャンだった父親に将来は立派な革職人になるように鍛えられます。
しかし、子供は親の敷いたレールの上は歩きたがらないものです。
小さな頃からのやんちゃだった彼は親に反抗し、私掠船に乗ると言いだします。
私掠船とはイギリスの許可をもらって敵国の船に対し、海賊行為を行う船を呼び、ワンピースでいうところの王下七武海です。
主にスペインの船と対立し襲っていたようです。
アレキサンダー・セルカークは当時から有名な私掠船の船長であり、世界周航を3回成功した最初の人物であるウイリアム・ダンピアという人物の遠征に参加します。
とはいっても一緒の船に乗るわけではなく、遠征部隊の中の1つの船に乗ります。
そしてチリの沖合い、670キロメートルの位置にある「ファン・フェルナンデス諸島」に立ち寄った時に事件は起こります。
アレキサンダー・セルカークは自身が乗っていた船の船長と言い争いになり、置き去りの刑にされてしまいます。
ここから無人島生活が始まります。
大工道具はありましたが、船を作るような技術もなく、たまに物資を補給しに船に救助されるのを待つしかありませんでした。
大工道具の他には銃、火薬、ナイフ、聖書を持っています。
これらを駆使して船が通りがかるまで生き残ろうと彼は考えます。
幸い、ファン・フェルナンデス諸島は昔の船乗りが緊急用の物資調達のために山羊を放牧しており、水も海産物も豊富にありました。
しかし、火をおこすことが課題になります。
イギリスに住んでいた時は火は簡単に手に入れられましたが、木と木をこすり合わせて作らないといけません。
彼は無人島生活で人と人が協力しあって、生きてきたということを学びながら生活します。
そして服もぼろぼろになり、山羊の革で服を作りますが小さい頃に父親に教え込まれた革職人としての技術がここで活きます。
彼は父親と喧嘩をして海に旅立ちましたが、父に感謝したそうです。
そして島の生活にも慣れ、4年半の月日が流れていました。
その時にはすっかり船が通りがかることは諦めていましたが、沖合いに船を見つけます。
しかしその船は私掠船に乗っていた当時、散々襲っていたスペインの船でした。
捕まったら拷問されて殺されると思ってアレキサンダー・セルカークは逃げます。
そしてスペイン船の船員も怪しいと思い、銃を持って追いかけてきます。
なんとか逃げのびたアレキサンダー・セルカークでしたが、絶望しました。
そんな時に彼を勇気づけたのは聖書だったようです。
母国語を忘れないために読み始めた聖書でしたが、敬虔なクリスチャンだった父親のことも思い出し、生きる希望になりました。
そして母国イギリスの船がファン・フェルナンデス諸島に来る時がきました。
今回は慎重に船に近づきましたが、もうすっかり現地人の風貌になっており、船員から怪しまれます。
しかし、その船にはウィリアム・ダンピアが乗っていました。
「ウィリアム・ダンピア…」と彼が口にしたところ、「うちの船長を知っているのか?」となり、ウィリアム・ダンピアと直接話すことができました。
そこで事情を話すとウィリアム・ダンピアは同情してくれ、イギリスまで送ってくれることになりました。
イギリスに帰ったアレキサンダー・セルカークはインタビュー記事が書かれて一躍、時の人となります。
そして1719年にはインタビュー記事に感化されたダニエル・デフォーという小説家がアレキサンダー・セルカークをモデルにして「ロビンソン・クルーソー」という物語を書き、現代にも読み継がれています。
そしてその2年後の1721年にアレキサンダー・セルカークは黄熱病にかかり、アフリカ西海岸の沖合いで亡くなり水葬に付されています。
45年という波乱万丈の人生でした。
そして1966年、ファン・フェルナンデス諸島の中で彼が過ごした島は「ロビンソン・クルーソー島」という名前に改称されました。
無人島生活は人の心を打つものがありますね。
WORKOUTになるから無人島生活をするのもいいですが、人生をかける気で行ってもいいかもしれません。