こんにちは。大関です。
8月も中旬になり高校野球が盛り上がっていますね。
盛り上がっていますねと書いていますが、この記事は約1週間前に書いているのでどれだけ盛り上がっているかは正直わかりません。
しかし、毎年ドラマが生まれ、スターが誕生する高校野球なので今年も感動を全国に届けてくれると思います。
今回はそんな高校野球に関するテーマです。
野球はもう歴史が長いので現代のプロ野球で野球経験がない人物が監督になるということはないと思います。
たまに漫画ではまったくの素人監督が選手を甲子園やチームを優勝に導くという描写があります。
そんな漫画のような奇跡を成し遂げた監督を紹介します。
ボクシング部から明野高校の黄金期を築いた冨士井金雪監督
まず1人目は三重県の明野高校で指導をしていた『冨士井金雪(ふじいかねゆき)』監督です。
冨士井金雪監督はWikipediaには「ボクサー、ボクシング指導者、高校野球指導者」という肩書きで載っています。
その肩書きの通り元々はボクサーをしていて野球の経験はありません。
しかしボクシング部での指導実績が買われて野球部の指導を行うようになります。
1978年から野球部の監督に就任し、1980年に甲子園に初出場をしてからは春3回、夏5回出場し、まさに強豪校に育て上げたと言っても過言ではないと思います。
ただスタメンを決める際に生徒の父母から金銭を受け取っていたという嫌疑を受け、結果的に1990年に若くして自ら命を絶ってしまいました。
しかしボクシングの指導方法で野球にも良い効果をもたらす手腕は、今でも大きなヒントになると思うのでとてももったいないですね。
冨士井金雪監督時代に明野高校に在籍しプロ野球選手になった人物で著名な選手は『大道典良(おおみちのりよし)』さんでしょうか。
南海ホークス、ダイエーホークス、ソフトバンクホークスを経て巨人に移籍し、主に対左投手の時のスタメンや代打の切り札として活躍した人物です。
体は大きいのですがバットをとても短く構え、ここ一番という所でヒットを打つという勝負師のような選手ですね。
吹奏楽部から藤代高校の野球部監督になった張替剛次監督
2人目は藤代高校で野球部の監督となった『張替剛次(はりがいたかし)』監督です。
藤代高校は張替剛次監督が指導を執る前は、名将と謳われた『持丸修一(もちまるしゅういち)』監督が指揮を執っていました。
その後任として張替剛次監督が就任します。
しかし張替剛次監督は今まで吹奏楽しかやってこなかった人物でした。
いかに名将が鍛え上げたチームだったとしても後任が吹奏楽部出身では選手の士気が下がると思います。
しかし張替剛次監督の指導力は並外れていました。
張替剛次氏が監督に就任したのは2003年です。
その2年後の2005年にはチームを甲子園に導いています。
しかも予選では恩師と言うべき持丸修一監督率いる常総学園を破って本大会に駒を進めました。
張替剛次監督は軟式野球部を率いた際にも好成績を残しており、藤代高校の選手層が厚かっただけというわけでなく、結果を残す指導を行えることを証明しています。
ヤンキーから山陽高校の野球部監督に就任した大上誠吾監督
荒れた学校を立て直し、スポーツで好成績を出すという物語は昭和の時代にスポ根ドラマとして人気がありました。
スポ根は「スポーツ」と「根性」から出来ている言葉なので今ではパワハラと言われ敬遠されるジャンルかもしれません。
古くはラグビーの「スクールウォーズ」でしょうか。
さすがにそれはリアルタイムで見ていませんが熱い先生が不良に鉄拳制裁をし、誰も本気で向き合ってもらえなかったことに気づいて更生し…というイメージです。
『大上誠吾(おおうえせいご)』監督はどちらかと言えばやんちゃな青春時代を送ったようです。
野球部にはもちろん入ってないので野球は未経験で、バイクにまたがり、走ることが好きでした。
そんな大上誠吾監督は広島県の山陽高校の野球部に就任しました。
広島はその時代、荒い若者が多かったようです。
そんな荒々しい高校球児に大上誠吾監督は寄り添い、たくさん耳を傾けたようです。
野球部監督に就任してすぐに結果がでたわけではありませんが1979年に監督に就任し、1990年に甲子園に出場しています。
そして1990年に当時では珍しく、入部時に丸刈りにすることを廃止しました。
この年の夏の大会ではベスト4まで残り「ミラクル山陽」として今でも語り継がれています。
ちなみにこの年の甲子園にはのちに大活躍するイチロー選手や松井秀喜選手、中村紀洋選手も2年生や1年生として出場しています。
シートノックすら満足にできない所から甲子園で優勝した田中公士監督
2023年6月に高野連(日本高校野球連盟)が都道府県功労賞と育成功労賞を発表しました
都道府県功労賞に選ばれたのは、佐賀商業高校を甲子園に導いた『田中公士(たなかこうし)』監督です。
田中公士監督は1980年に佐賀商業高校の野球部監督に就任しました。
田中公士監督は佐賀商業高校の前は佐賀県の多久高校で野球部の監督をしていましたが、目立った成績は残せませんでした。
そして自身は大学時代に軟式野球の同好会に入ってはいましたが、本気で野球に取り組んだわけではありません。
周りからは多久高校から佐賀商業高校に赴任した時に野球部の監督は降りられると思われていたようです。
というのもシートノックではキャッチャーフライをうまく打つことができず周りからは笑われていたこともあったからです。
田中公士監督も就任してすぐに結果が残せたわけではありません。
しかし着実に指導者としても実力を積み上げていました。
そして赴任してから14年後の1994年夏の大会。
甲子園で佐賀県勢として初優勝をしました。
佐賀商業高校は公立高校で当時は全くのノーマークでした。
しかも優勝を飾った選手は全て地元の選手でした。
つまり有力な選手を他県から招致してチームの力を底上げしたわけでなく、全て育成して強力なチームを作ったというわけですね。
田中公士監督は選手の自主性にまかせ、伸び伸びとプレーさせるという育成方針をとっていたようです。
そして試合では調子のよい選手を積極的に使い、勝負所で結果を出しました。
これは田中公士監督の指導力と采配力がとても高いことの証明になりますし、自主性に任せていても選手をよく見て適材適所で活躍させていたことがわかります。
今まで紹介した監督も最初は指導をした時にたぶん高校球児になめられていたと思います。
普通は野球を経験していたとしてもベンチ入りではなく、スタメンで大活躍していた人物に指導してもらいたいと高校球児は思うと思います。
「野球をやったことないのにこんな練習で勝てるわけない」と心の中で思いながら練習しても身につかないと思います。
それを「この監督が言っているならもしかしたらものになるかもしれない」という期待に変える必要があります。
それには実績が必要です。
高校球児が期待し、上達することを信じさせる「可能性の雪だるまの芯」を作るのはとても大変なことです。
もちろん最初は実績もないので、バカにされながらも真剣に甲子園に行きたい想いを高校球児たちと分かち合ってみんなを本気にさせたのだと思います。
高校野球には試合で見れる部分にもドラマはありますし、普段は見れない裏側にもドラマがありますね。
球児に負けないようにWORKOUTを継続していきましょう。