昔の歴史の教科書から今の歴史の教科書で改変された4つの歴史について

ワクセル主催嶋村吉洋さんもどう掲載されてるか気になる歴史の教科書

こんにちは。大関です。

今回は体をWORKOUTするわけではなく、頭の体操です。

「歴史の教科書がどんどん書き変わっている」という話は聞いたことがあると思います。

「今では『聖徳太子(しょうとくたいし)』という人はいないと歴史の授業では教えられている」
「鎌倉幕府が成立したのは1192年ではないと教えられている」

などと聞いて驚いた方は多いと思います。

そしてそれ以外にも昔の歴史の教科書と今の歴史の教科書で、変更されている部分はたくさんあります。

教科書を販売している会社はたくさんあり、もちろん全ての教科書で変更をされているというわけではありません。

今回は歴史の教科書の歴史を勉強していきましょう。

聖徳太子はいない!?

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出典:聖徳太子二王子像 – Wikipedia

聖徳太子は歴史の教科書で早々に登場し、強烈な印象が残っているという方も多いのではないでしょうか。

10人の話を同時に聞き分けたエピソードは人間離れしていておもしろいですし、様々な仕組みを作った天才でもあります。

聖徳太子が制定したものとして、十七条の憲法と冠位十二階と習った方も多いと思います。

十七条の憲法は今読むと怠けず働くことを推奨し、嫉妬や怒りを出さず励めということが書いてあります。

当時は流し読みしてましたね。

フリーランスになる方には心にしみる内容ではないでしょうか。

そして冠位十二階は血縁によらず、能力によって昇進できる制度です。

この時代にこの制度を作るのはだいぶ革新的だと思います。

また遣隋使の派遣も聖徳太子が指示しました。

当時の日本よりもだいぶ進んだ文化を持つ隋から学ぶために行ったことです。

この時期に海外を視野に入れているのもすごいことだと思います。

さらに世界で一番古い木造建築物の『法隆寺(ほうりゅうじ)』の建立にも携わっています。

この時代に建てた建築物が今の時代まで残されており、見学できるのは感動しますね。

これだけの実績を持った聖徳太子ですが、現在では教科書の中には存在しません。

ただその存在が創作でまったく存在しなかったというわけではありません。

叔母の『推古天皇(すいこてんのう)』が即位した時に『蘇我馬子(そがのうまこ)』と協力して政治を補佐した『厩戸皇子(うまやどのみこ)』が聖徳太子です。

現在では厩戸皇子として教科書に記されており聖徳太子とは記されていません。

元々聖徳太子という名前は尊称のようなもので厩戸皇子の方が本名ということは知っていましたが、わざわざ慣れ親しんだ名前を変える必要はないかなと個人的には思います。

また歴史の教科書とは違いますが、昔の一万円札に載っていた聖徳太子の肖像画も本物かどうか立証することはできないので「伝・聖徳太子像」となっているようです。

鎌倉幕府の成立年は1192年→1185年!?

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出典:源頼朝 – Wikipedia


『源頼朝(みなもとのよりとも)』がつくった鎌倉幕府の成立年を「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂で覚えた方も多いと思います。

しかし現在では1185年に鎌倉幕府が成立したと教科書では教えられています。

これは単純に後世の歴史家の認識の違いのようです。

元々1192年に鎌倉幕府が成立したと教えていたのは、1192年に源頼朝が征夷大将軍になったからです。

鎌倉幕府の「幕府」とは「将軍の位を持つ人物によってつくられた武家政権」という意味です。

しかし1185年には源頼朝は各国に守護や地頭、荘園を置くという将軍としての権限を持っていました。

つまり実質的に1185年には鎌倉幕府を開いていたので、現在では1185年が鎌倉幕府の成立となっています。

今の教科書で教えている説は言葉の意味に正確に従うと、将軍ではないのに幕府を開くというのはおかしいとなります。

また変更されるか1185年から1192年までは鎌倉幕府ではない呼び方が増えるかもしれませんね。

仁徳天皇陵ではなく大仙陵古墳!?

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出典:仁徳天皇陵」含む古墳群、世界遺産に 諮問機関が勧告 – 日本経済新聞


このブログを読んでいる方で古墳を見学に行った方はいるでしょうか?

行っても山しかないので城址などを見に行くよりも退屈かもしれません。

ちなみに僕は、ある古墳をついでではなく主目的として見に行ったことがあります。

何かが出土している古墳だと、発掘作業をしている時の写真なども展示してあって意外と楽しめると思います。

日本で最大の古墳はご存知でしょうか。

その古墳は「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」の形をしています。

前方後円墳という響きが懐かしいという方も多いかもしれません。

前方後円墳とは上から見ると鍵穴の形をしている古墳です。

日本で最大の古墳は昔の歴史の教科書では『仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)』と呼ばれていました。

現在の歴史の教科書では『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』と呼ばれています。

これは古墳がある場所が大阪府堺市堺区大仙町で、町の名前をとって大仙陵古墳となったわけです。

今の歴史の教科書で仁徳天皇陵と教えない理由は他にもあります。

この古墳から出土したものを鑑定すると5世紀前半から中期のものという結果が出ました。

しかし日本書紀に記される仁徳天皇の没年は399年です。

もちろん日本書紀が間違っていた場合や出土品の鑑定結果が間違っていた場合もありますが、現在有力な説を合わせると辻褄が合わなくなります。

なのでより正確に表現するために大仙陵古墳という名前になったと思います。

ちなみに大仙陵古墳は2019年に世界遺産に登録されています。

まだ古墳を主目的として見に行くという計画を立てたことがない方はぜひ行ってみてください。

日本最古のお金は和同開珎ではなく富本銭!?

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出典:富本銭 – Wikipedia


「お金が好きだ」という方にはこの話題も絶対に知りたいことだと思います。

昔の歴史の教科書では日本最古のお金は『和同開珎』だと教わります。

この和同開珎は読み方が2つあり「わどうかいちん」や「わどうかいほう」と呼びます。

どちらで呼ばれていたかは諸説あり、今でも議論されているようですね。

しかし今の歴史の教科書では『富本銭(ふほんせん)』が日本最古のお金と紹介されています。

和同開珎は8世紀前半に造られましたが富本銭は7世紀後半に造られたといいます。

奈良県の『飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)』で銅銭の鋳造跡が見つかり、そこで造られた富本銭が7世紀後半に造られたと考えられています。

ただ、現在のお金の用途ではなくおまじないなどに使う厭勝銭だったのではという説もあります。

ちなみに厭勝銭は「ようしょうせん」「えんしょうせん」「あっしょうせん」と複数の読み方があります。

昔はお金がなく物々交換をしており、その後は貝をお金の代わりにしていたという時代があったようです。

なのでお金にまつわる漢字には貝という文字が入ることが多いと言われます。

お金にはいろいろな説があり、今でもわかっていないことがたくさんあるのでおもしろいですね。

これから時代が進むとキャッシュレス決済が増えていくと思います。

後世の歴史家はキャッシュレス決済が増えた時代をどう捉えるのかも想像するとおもしろいかもしれません。

他にもまだまだ昔の歴史の教科書と今の歴史の教科書の違いはあります。

何百年も前の時代のことで誰も証言する人がいないからこそ、想像力を搔き立ててその時代に何が起こったのかを突き止めることには興味が尽きませんね。

歴史の謎が明かされるのは時間がかかります。

今回は頭の体操でしたが、健康のためにもWORKOUTを継続していきましょう。

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