育成ドリームを勝ち取った選手たち 2選

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアでも見たい育成ドリームを掴んだ男たち

こんにちは。大関です。

以前、プロ野球の世界で育成選手から這い上がってスター選手の仲間入りをした、ソフトバンクホークスの『甲斐拓也(かいたくや)』選手を取り上げました。

今回は甲斐拓也選手以外で、育成選手から這い上がり大スターになった野球選手をご紹介します。

プロ野球選手は野球をするためにWORKOUTを日々しているので、取り組む姿勢や自分の体と向き合う真摯さなど参考にできる部分は多いと思います。

その中でも育成選手はアマチュアの時代にはそこまで活躍することができず、くすぶっていた選手です。

しかし、スカウトの目で見ると何かキラリと光るものがあるため育成枠として指名されます。

育成選手から這い上がってプロ野球の1軍で活躍する選手は、本当に努力で道を切り開いたと言えますね。

育成選手がどのような契約形態をしているのか?や甲斐拓也選手については下記の記事から参照してみてください。

甲斐拓也選手とともに育成選手から這い上がった千賀滉大選手

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアでも見たい育成ドリームを掴んだ男たち

出典:千賀滉大投手ノーヒットノーラン達成記念企画! | 福岡ソフトバンクホークス


育成選手の中で一番の大成功を掴んだ人物といえば、現在ニューヨーク・メッツでプレーをする『千賀滉大(せんがこうだい)』選手だと思います。

育成選手から初のメジャーリーガーとなった千賀滉大選手は、1993年に愛知県蒲郡(がまごおり)市に生まれました。

小学校2年生から野球を始め、高校生の時は野球の強豪校でもない普通の公立高校の愛知県蒲郡高校に入学します。

高校1年生の時は身長176cm、体重60kgで球速は120キロでしたが高校の3年間は体作りと猛練習に明け暮れます。

体作りと猛練習の成果があり、高校3年生の時には身長183cm、体重76kgで球速は144キロまで伸びました。

しかし高校時代は甲子園には縁がなく、県大会の3回戦で敗れ、プロからお呼びはかかりませんでした。

ただ千賀滉大選手は当時から「世界は自分を中心に回っている」と考えていたようです。

周りの選手から「何言ってんだ?」と思われていたようですが、まさに世界が千賀滉大選手を中心に回っているように千賀滉大選手を導きます。

千賀滉大選手の地元のスポーツ用品店を経営する『西川正二(にしかわまさじ)』さんという方がいました。

西川さんは千賀滉大選手が高校で投げている姿を見て「こんな肘の使い方をする選手はいない。億を稼ぐ選手になる」と直感したようです。

そして「この選手を埋もれさせてはいけない」という使命感を覚え、手あたり次第のツテを使ってプロのスカウトに千賀滉大選手を売り込みます。

西川さんの頑張りもあって、楽天やロッテが視察にきましたが「育成枠でも厳しい」として指名はしませんでした。

しかし最後に視察にきたソフトバンクホークスだけは千賀滉大選手のポテンシャルに可能性を感じます。

そしてこの年の10月28日の育成ドラフト4巡目で千賀滉大選手を指名し、ソフトバンクホークスに入団することになりました。

千賀滉大選手に惚れ込み、プロ入りのために尽力した西川さんはさぞ喜んだと思いますが、西川さんはドラフトの様子を見ることはできませんでした。

育成ドラフト前の10月16日に西川さんはお亡くなりになっています。

西川さんは使命を全うして亡くなったように感じますね。

その後は代名詞となる「お化けフォーク」ですぐさま大活躍というわけにもいかなかったようです。

千賀滉大選手のプロ入りしてすぐの球速は141キロでした。

そして育成ではなく正規のドラフトで同期入団した『柳田悠岐(やなぎたゆうき)』選手の球速が144キロでした。

ただ、柳田悠岐選手は投手ではなく野手として登録されています。

野手に球速で負けるという経験はショックだと思います。

しかしここで腐らず、千賀滉大選手は1年後には球速を152キロまであげました。

球速をあげたことで1年で支配下選手登録も勝ち取ります。

そして3年目に代名詞となる「お化けフォーク」を取得します。

その後は怪我などもありましたが大活躍をし、甲斐拓也選手とともに育成選手初のオリンピック代表選手に。

さらに育成選手初のメジャーリーガーとして大活躍を続けています。

驚きの経歴を持つ山口鉄也さん

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアでも見たい育成ドリームを掴んだ男たち

出典:山口鉄也 | プロフィール・成績・速報・ドラフト・ニュースなど選手情報 – 週刊ベースボールONLINE

2人目は巨人で2018年まで活躍した『山口鉄也(やまぐちてつや)』さんです。

山口鉄也さんは1983年に神奈川県横浜市に生まれます。

野球との出会いは小学校1年生の時だったようです。

高校の時は横浜商業高校で大会に出場しましたが、3年生の時に神奈川県大会でベスト8で敗退しました。

そしてプロ志願届を出しましたが、どこからもお呼びはかかりませんでした。

普通ならここで諦めて普通に大学に行くか社会人になります。

しかし山口鉄也さんはたまたまアメリカの球団のダイヤモンドバックスのプロテストを友人に誘われて受けてみることにしました。

高校生で受験や就職を控えたタイミングで日本でダメだったのに、アメリカのプロテストを受けるというのはすごいチャレンジだったと思います。

もしかしたら思い出づくりのためにプロテストを受けたのかもしれませんが、なんと合格してしまいました。

しかしメジャーリーグの壁は厚く、マイナーリーグでも一番下のルーキーリーグに所属し給料は毎月10万円、毎日ハンバーガーの生活を送っていたようです。

マイナーリーグとメジャーリーグでは選手の扱いに雲泥の差があると言われます。

一度メジャーリーグに昇格するとマイナーリーグでの扱いが嫌で嫌で仕方なくてメジャーリーグに何が何でもしがみつきたいというモチベーションの選手もいるようです。

山口鉄也さんも一番きつかったのはバス移動で、大きな選手に挟まれて最長16時間の移動は大変だったようです。

しかし高校を卒業してすぐの体もできあがっていない時期なので、山口鉄也さんはルーキーリーグから昇格することはできませんでした。

3年間在籍し、2005年に日本に帰国します。

そしてコンビニで働き、バイトで食いつなぎながら自主トレをし、プロ入りを目指していました。

日本のプロ球団入りを目指して横浜と楽天の入団テストを受けましたが、両方とも不合格となってしまいます。

横浜では「ハマの大魔神」の異名を持つ佐々木主浩さんが山口鉄也さんの獲得を勧めましたが不合格としています。

そして「これでダメなら野球をやめる」という覚悟で臨んだ巨人の入団テストでアメリカで習得したチェンジアップが評価され、合格となりました。

山口鉄也さんに関してはダイヤモンドバックス行きがなければチェンジアップを習得することがなく巨人に入団することはなかったと思います。

ルーキーリーグでの辛い3年間も意味があったというわけですね。

そして巨人の1年目での支配下登録は勝ち取れなかったものの、2年目で支配下登録を勝ち取っています。

3年目にはリリーフで67試合に登板し11勝をあげ、育成選手初の新人王を獲得します。

この年から9年連続60試合以上に登板し、2014年には年俸は3.2億となります。

マイナーのルーキーリーグで鳴かず飛ばずからコンビニ勤務という経歴の選手がまさに這い上がりましたね。

この他にも育成選手出身で大ブレイクした選手はたくさんいます。

千賀滉大選手も山口鉄也さんも最後の最後で諦めないからこそチャンスがきてそれをものにできたのだと思います。

そしてチャンスを活かすのは普段からの取り組みが真摯だからこそだと思います。

ということでこれからもWORKOUTを継続していきましょう。

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアでも見たい育成ドリームを掴んだ男たち