50歳まで現役を続けた山本昌さんの経歴を見たら驚いた

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアで見たい山本昌さん

出典:Wikipedia 山本昌さんのページ

こんにちは。大関です。

今まで何度も野球選手について取り上げてきました。

僕は自分ではまぁまぁ詳しい方だと思っていますが、改めて調べてみると驚くということがあります。

今回は中日ドラゴンズ一筋で前人未到の50歳まで現役を続け、200勝を達成した『山本昌広(やまもとまさひろ)』さんを取り上げます。

山本昌広から山本昌になるまでの経歴

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアで見たい山本昌さん

山本昌広さんの野球選手の登録名は『山本昌(やまもとまさ)』となっています。

以下、山本昌さんと記事内で表記します。

野球を引退した現在もメデイアに出演する時は山本昌名義で出演しています。

野球選手ではあるあるですが、同姓の選手がいると名字+名前の1文字で表記されます。

スコアボードに表示された時によりわかりやすくするためですね。

山本昌さんは1965年に神奈川県茅ヶ崎市に生まれ、1983年にドラフト5位で中日ドラゴンズに入団しています。

この時は本名で登録され、スコアボードには「山本」とだけ表記されます。

まだ山本昌の登録名にはなっていません。

1984年(19歳)は1軍登板なしでした。

1985年(20歳)も1軍登板なしです。

1986年(21歳)の時に1試合だけ1軍登板を果たします。

しかしシーズン終盤の消化試合での登板でした。

この年は勝利投手にも敗戦投手にもなることもなくシーズンを終えます。

1987年(22歳)の時は開幕1軍を勝ち取ります。

しかし開幕直後の4月に肘を疲労骨折をして離脱を余儀なくされ、シーズンを終了しています。

この年も勝利投手にも敗戦投手にもなっていません。

そしてこの年は以前このブログで取り上げた『近藤真市(こんどうしんいち)』さんが活躍しました。

近藤真市さんの記事はコチラ

近藤真市さんは山本昌さんと同じサウスポーです。

そして高校から入団した山本昌さんと同じで近藤真市さんも高校卒業後すぐに中日ドラゴンズに入団しました。

なので山本昌さんからしたら自身より若く、同じサウスポーなのでライバル視します。

そう思って注目していた近藤真市さんがプロ初登板でノーヒットノーランを達成します。

この記録はいまだに破られていません。

山本昌さんが肘を骨折して投げれない時に近藤真市さんはノーヒットノーランという結果を残し、山本昌さんは「これでクビになる」と思ったそうです。

1988年(23歳)の時に転機が訪れます。

シーズンが始まる前の2月に中日ドラゴンズが業務提携をしていたロサンゼルスドジャースと野球交換留学をすることになりました。

中日ドラゴンズからは5人の若手選手がアメリカで野球漬けの日々を過ごします。

この野球留学に選ばれるのはすごく感じますが、実際は戦力外に近い選手が選ばれていたようです。

この野球留学で山本昌さんはアメリカで日本人野球留学生の面倒を見ていたメジャーリーグの球団職員の『アイク生原(いくはら)』さんと出会います。

そしてアイク生原さんの紹介でロサンゼルスドジャースのフェルナンド・バレンズエラと知り合います。

そしてフェルナンド・バレンズエラからスクリューという球種の握り方・投げ方を伝授されます。

山本昌さんと言えばスクリューで強打者を打ち取るという投球スタイルです。

ここで山本昌さんの原点となる球種のスクリューとの出会いかと思うかもしれませんが、フェルナンド・バレンズエラのスクリューはレベルが高く、山本昌さんは理解できませんでした。

しかし2ヵ月後、チームメイトのメキシコ人のジョゼフ・スパニュオーロ内野手が試合前のキャッチボールでスクリューを投げていたのを見かけます。

ジョゼフ・スパニュオーロさんは投手ではなく内野手でしたが簡単そうにスクリューを投げています。

それを見て投げ方を教えてもらった所、自分でも驚くほど球が変化したそうです。

そして2日後の試合でスクリューを実践投入し、決め球として通用しました。

スクリューという決め球を身に着け、山本昌さんはアメリカで大活躍します。

山本昌さんの活躍を知った中日ドラゴンズの星野監督は山本昌さんを日本に呼び戻して1軍登板させ、この年に初勝利を含む5勝をあげました。

1989年(24歳)の時から1軍に完全に定着します。

この年は9勝9敗でした。

1990年(25歳)の時は10勝7敗です。

この年に中日ドラゴンズに『山本保司(やまもとやすし)』さんという選手が入団してそれぞれ「山本昌」「山本保」という登録名になりました。

山本保司さんは1996年から千葉ロッテに移籍しましたが、登録名が「山本昌」の方が成績がよく、ゲンを担いで登録名は戻さなかったようです。

中日ドラゴンズのエースとして活躍~引退までの経歴

嶋村吉洋さん主催ワクセルのメディアで見たい山本昌さん

1991年(26歳)の時は6勝8敗。

負け越してはいますが1年間ローテーションを守っています。

1992年(27歳)の時は13勝10敗で成績が安定してますね。

1993年(28歳)の時は17勝5敗で最多勝。

防御率2.05で最優秀防御率も獲得しています。

5年前には戦力外間近だった選手が見事に活躍していてすごいですね。

1994年(29歳)の時は19勝8敗で最多勝。

他にも沢村賞、最優秀投手、ベストナインも獲得しています。

1995年(30歳)の時は2勝5敗。

この年は勤続疲労で怪我もあり、調子が上がらない1年でした。

ただ野球選手の平均引退年齢は29歳なのでここで引退してもおかしくないわけです。

1996年(31歳)の時は7勝9敗で若干復活します。

1997年(32歳)の時は18勝7敗1Sで最多勝、最多奪三振、最優秀投手、ベストナインを獲得。

30歳を超えて完全復活しました。

そして100勝も超えました。

1998年(33歳)の時は9勝9敗。

前年の活躍を見ると物足りなく感じますがすごい数字です。

1999年(34歳)の時は8勝5敗です。

2000年(35歳)の時は11勝9敗です。

一般的な投手としては晩年と言われる年齢ですがしっかり数字を残しています。

2001年(36歳)の時は10勝13敗です。

二けた勝利していますがいよいよ負け越しています。

2002年(37歳)の時は7勝6敗です。

2003年(38歳)の時は9勝7敗です。

もうすでにエースとしてではなくベテランとしてチームを支える選手となっています。

2004年(39歳)の時は13勝6敗でまたエースのような働きをしています。

2005年(40歳)の時は7勝8敗です。

通算勝利数は180勝でここで引退しても大投手と言われます。

2006年(41歳)の時は11勝7敗でこの年になんとノーヒットノーランを達成しています。

このノーヒットノーランは日本プロ野球最年長記録です。

初登板ノーヒットノーランの近藤真市さんを見てクビを覚悟した男が最年長記録を作るのは熱い展開ですね。

2007年(42歳)の時は2勝10敗。

この年は怪我もなくこの成績だったようです。

しかし200勝が目の前だったので球団も引退を勧めなかったようですね。

2008年(43歳)の時は11勝7敗で200勝を見事達成しました。

2009年(44歳)の時は1勝4敗で苦しいシーズンを過ごします。

2010年(45歳)の時は5勝1敗で少し復活しました。

こうやって復活するシーズンがあるので長く現役を続けられるんですね。

2011年(46歳)の時は1軍登板なしでした。

ここでも球団から引退を勧められることなく契約が更新されます。

2012年(47歳)の時は3勝2敗でしたが、この頃にはもう野球に取り組む姿勢が若手選手への手本となっていると思います。

2013年(48歳)の時は5勝2敗で勝ち越しています。

2014年(49歳)の時は1勝1敗でした。

そして2015年(50歳)の時は0勝0敗でしたが、日本プロ野球最年長で1軍のマウンドに立ちました。

この年で山本昌さんは引退しています。

よく山本昌さんは『山本浩二(やまもとこうじ)』さんから『大谷翔平(おおたにしょうへい)』さんまで対戦したことがある男と言われます。

1軍にいた年数は29年間です。

なので昔のレジェンドから今のレジェンドまで対戦経験があってもおかしくありません。

そして23歳の時にクビを覚悟した近藤真市さんの息子さんが山本昌さんの現役中に中日ドラゴンズに入団してチームメイトになっています。

山本昌さんは最晩年で近藤真市さんの息子さんは育成契約だったので接点はなかったかもしれませんが数奇な運命ですね。

これからもWORKOUTを継続して長く活躍できる下地を作りましょう。

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