こんにちは。大関です。
最近は涼しい日も増え、運動やWORKOUTもしやすくなりましたね。
以前、女性でも腕っぷしで活躍した戦国武将を紹介しました。
最初は吉岡妙林、そして第二弾は立花誾千代と書かせていただきました。
以下、該当の記事です。
そして今回は、武将ではないですが、政治家として戦国大名の今川家を影で支えた「寿桂尼(じゅけいに)」を紹介して行きます。
裏で政治を執っていた寿桂尼
寿桂尼は元々公卿(くぎょう)という高貴な身分の家系に産まれ、今川氏親の正室(第一夫人)になりました。
そして今川氏輝(うじてる)、今川義元(よしもと)、瑞渓院(ずいけいいん)などを出産します。
この中で一番知名度が高いのは今川義元ではないでしょうか。
たぶん理由は、織田信長に桶狭間(おけはざま)の戦いで敗れたからです。
有名な人に敗れると、やられた相手の名前が何度も出て有名になることはあります。
ちなみに元野球選手のイチローさんの第1号ホームランは野茂英雄さんから、第100号ホームランは松坂大輔さんから放っています。
打たれた人もイチローさんに打たれなくても、元大リーガーで普通に有名でした。
そして今川義元は完全に織田信長のおかげで有名になった、無能な人物と思ってしまいがちですが、領地の駿河(するが)国と遠江(とおとうみ)国を最大版図にしていることから、決して劣悪な人物ではないと思います。
そんな今川家を裏で支えていたのが寿桂尼です。
彼女は夫の氏親の時だけでなく、息子の氏輝、義元、義元の子の氏真(うじざね)の時代まで政務を補佐します。
氏親の死後に氏輝が家督を継ぐと、当時14歳だった氏輝の代わりに、16歳になる2年間、寿桂尼が公文書の発給を行っていました。
しかし、1536年に氏輝が急死してしまいます。
この時の死因は現在も不明なようです。
そこで、当時出家をしていた義元を呼び寄せて今川家当主に据えました。
前述の通り、義元は最大版図を築きますが、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ戦死してしまいます。
ここまで大きく成長してきた国が崩れるのは胸が痛かったでしょう。
しかし、織田信長や、隣国の有力大名である武田信玄に庇護を頼むわけでもなく、自立の道を求め、義元の子の氏真を今川家当主に据えました。
もちろん自身の国と対等な関係での外交はしていたと思います。
いわゆるコラボレートですね。
そして氏真が当主になって8年目の1568年に寿桂尼は亡くなっています。
寿桂尼は「死しても今川の守護たらん(死んでいても今川家を守っていく)」という言葉を残したそうですが、寿桂尼が亡くなってからは武田信玄が駿河侵攻を開始し、その翌年に氏真は徳川家康に降伏して今川家は滅亡しました。
しかし、反対に言えば、寿桂尼が生きていた8年間は当時最強と言われた武田信玄ですら手が出せなかったのですから、彼女の影響がどれほど大きかったのかなと思います。
こういった活躍した女性の事績を思い、もっとできると思いながらWORKOUTにはげみましょう。