こんにちは。大関です。
いきなり話が脱線しますが、本日3/7はサウナの日だそうです。
サウナはフィンランドの言葉のようですね。
そしてサウナに関して以前書いた記事もあります。
まずは『医者が教えるサウナの教科書』という本を読んでみて感じたことを書いたレビュー記事。
そして世界一危険な天然のサウナと言われるダナキル砂漠を取り上げました。
読者のみなさんはサウナは好きでしょうか。
WORKOUTを前向きに取り組むためにサウナを利用する人は多いと思います。
しかし石川五右衛門の話を書くはずなのに、なんでサウナの話をしているんだ?と思う方もいるかと思います。
石川五右衛門の最期をご存知でしょうか。
釜茹での刑で亡くなっていますね。
3/7という日付と、熱いという共通点からサウナの話題を持ってきたのか?と感じたかもしれませんね。
その通りです。
ということで石川五右衛門の出生から釜茹での刑に処されるまでをご紹介していきます。
不義理が多かったが、根は義賊だった石川五右衛門
石川五右衛門は1558年頃に生まれたとされています。
時代的には江戸時代になる少し前ですね。
翌年の1559年に織田信長が上洛して、足利義輝に謁見しているので、天下統一まであと一歩という時期になります。
石川五右衛門は幼いころから悪童で、窃盗や無銭飲食を繰り返していたようです。
そして10代後半になると伊賀忍者の百地三太夫(ももち さんだゆう)の弟子となり、忍術の習得に励みます。
忍者とか厨二感があってどこかワクワクしてしまいますね。
しかし、忍術をマスターすると不義理をし、逃げてしまいます。
しかも多額のお金を奪っていってしまいます。
幼いことから足が早く、窃盗や無銭飲食をした時も捕まったことがない五右衛門は、忍者達からも逃げ切りました。
そして盗賊の道に足を踏み入れることになります。
盗みが天才的にうまかった五右衛門は、多数の手下を抱える大盗賊団の頭になりました。
そして石川五右衛門の盗みには1つの美学がありました。
それは庶民の家には泥棒に入らず、貴族や権力者の家に盗みに入るということ。
そして、盗んだ金品は貧しい人にばら撒いたそうです。
義賊として石川五右衛門は庶民から人気があったようですね。
時は流れ、豊臣秀吉が天下を治めました。
石川五右衛門は秀吉の居城の伏見城に盗みに入ることを画策します。
しかし、秀吉は石川五右衛門の情報も把握しており、伏見城にはセコムのように防犯対策が施されていました。
石川五右衛門は捕まり、その場で秀吉によって釜茹での刑を言い渡されたようです。
そして京都三条河原で五右衛門の子供と共に、釜茹での刑に処されました。
以上が石川五右衛門の出生から釜茹での刑に処されるまでです。
アニメの『ルパン』の影響で剣士と思っていたり、意外と知らないこともあったかなと思います。
また、過去に忍者の服部半蔵正成についても記事を書いているので興味がある方はご覧になってください。
不義理はよくありませんが、人の役に立つためにWORKOUTを継続していきましょう。