こんにちは。大関です。
今年のプロ野球は記録ずくめですね。
今までも大きな記録が達成されるたびに取り上げてきました。
今年は佐々木朗希選手の完全試合から始まり、ノーヒットノーランも何人も達成者がいます。
では投高打低のシーズンなのかなと思いきや、村上宗隆選手が5打席連続ホームランを放っています。
最近では村上宗隆選手は史上最年少の50号ホームランを放ち、また注目されていましたね。
では打高投低だったかというと、大谷翔平選手が投手と野手でベーブルース氏を超える数字を記録し、投も打も両方ハイレベルということだなと結論づけられます。
そして脂が乗り切って大活躍している選手もいれば引退する選手もいます。
本日8日に中日ドラゴンズの福留孝介選手が引退を発表しました。
福留孝介選手は「松坂世代」と呼ばれた松坂大輔さんと同年の1998年に中日ドラゴンズに入団した選手です。
松坂大輔さんが高校生から入団し、福留孝介選手は社会人を経て同じ1998年のドラフトなので45歳まで現役を続ける福留孝介選手は驚嘆に値しますね。
そして今回は福留孝介選手と同じ中日ドラゴンズに所属した人物の記録のお話です。
しかも、今までに1度しか達成されていない記録の「プロ野球1軍公式戦初登板初先発ノーヒットノーラン」です。
この記録を達成したのは当時中日ドラゴンズに所属した近藤真市(こんどうしんいち)さんです。
実は本日(9月8日)は近藤真市さんの誕生日ということで取り上げました。
近藤真市さんがどんな選手だったか見ていきましょう。
近藤真市さんの生い立ちや経歴
出典:ご存知ですか? 8月9日は中日・近藤真一が初登板でノーヒットノーランを達成した日です | 文春オンライン
近藤真市さんは1968年9月8日に愛知県一宮に生まれます。
ちなみに本名は『近藤真一』さんです。
野球選手としてゲンを担いで改名するということはよくあります。
有名な人では『松井稼頭央』さんも本名は『和夫』ですね。
このブログでは近藤真市さんの表記で統一します。
投手として有利な左利きであり、140キロ台中盤から後半の球速の速球に加え、縦に大きく割れるカーブを武器にしていました。
高校3年時には春夏連続で甲子園に出場し、10年に1人の逸材と注目を浴びました。
1986年のドラフト会議で中日ドラゴンズ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズ、広島カープ、阪神タイガースの5球団から1位指名されます。
そしてくじ引きの末、中日ドラゴンズの星野仙一監督が交渉権を獲得し、中日ドラゴンズに入団することになりました。
背番号は13です。
そしてプロ1年目の1987年8月9日の巨人戦で前人未到の『初登板初先発ノーヒットノーラン』を達成しました。
この年の巨人はとても強く、チーム打率.281、勝率.639を誇り、貯金33という圧倒的な強さで優勝しました。
そんな打線を前に、高校を卒業して半年足らずの選手が1本のヒットも許さずに抑えきってしまいました。
しかも近藤真市さんは、この日の2日前の8月7日に1軍登録されたばかり。
普通なら先発や大事な場面での登板ではなく、まずは1軍の空気に慣れるために救援登板から投げさせたいとベンチは思うはずです。
しかしこの時、他の投手は前日までで使い切ってしまっており、他の投手を休ませたかったというチーム事情があったようです。
1軍に呼ばれてすぐに先発を申し渡されるのも驚きですが、その場面でいきなり結果を出してしまう近藤真市さんにも驚きですね。
ただ、星野仙一監督は今後のことも考えて初先発では打たれる経験をして欲しいと思いながらベンチで見ていたようです。
野球は本当に思惑通りにはいかないスポーツですね。
シーズンオフには紅白歌合戦の審査員までした近藤真市さん
出典:近藤真一、木田勇、与田剛…「プロ1年目の活躍」が衝撃だった投手は | 野球コラム – 週刊ベースボールONLINE
初登板初先発ノーヒットノーランをした近藤真市さんは3試合目の先発となる阪神戦でも完封勝利を記録します。
初めて1軍に登録されてからいきなり3勝0敗で当時史上最年少の月間MVPを獲得します。
そして9月の巨人戦でも完封勝利を飾り順風満帆の1年目を終えました。
成績は4勝5敗、防御率4.45で新人としては充分だと思います。
そして3回の完投があり、その全てが完封勝利でした。
勢いづいたら止められない投手の典型ですね。
そしてシーズンオフには紅白歌合戦の審査員にも選ばれます。
2年目は背番号を13から1に変更します。
2年目から長きにわたってエースとなって欲しい球団側の気持ちが見える背番号変更です。
その期待に応えるように1988年シーズンは前半戦で7勝を挙げます。
しかしそのあたりから肩と肘に違和感が出始めます。
速球の球速が出なくなり、後半戦では1勝しかできず2年目のシーズンを終えました。
1989年には左肩の手術を行い、1991年には左肘のトミー・ジョン手術も受けました。
しかし手術の甲斐はなく、1988年を最後に1軍で勝利することはできませんでした。
ちなみに1991年に背番号を1から元の13に戻しています。
2年目でケガをしていなければ素晴らしい成績を残していたかもしれないと思うと、もったいないですよね。
また1994年には左肩と左肘が治らないことから打者転向も視野に入れていました。
打者としての才能にも溢れていたのですね。
しかし星野仙一監督から「誰にもできない記録を作ったんだ。投手近藤で終わるのがいい」と言われ現役を引退しています。
通算では12勝でしたが、最初の1勝で不滅の記録を作ったのはすごいですね。
近藤真市さんは現役を引退してからはスコアラーをし、その後はスカウトになり、投手コーチなどを歴任します。
スカウトをしていた時に中日ドラゴンズで長く守護神として活躍する岩瀬仁紀さんを発掘しました。
前人未到の400セーブを記録し相手チームからは「死神」と恐れられた岩瀬仁紀さんは、近藤真市さんと同じ左投げ投手で背番号13です。
自分がデビューした時と引退した時につけていた背番号の選手を裏方として見ていた気持ちは一体どのようなものだったのでしょう。
近藤真市さんは中日ドラゴンズに2021年まで球団職員として在籍しました。
選手時代から数えると実に35年間です。
選手としてよりも職員やコーチとしての方が長く、発掘や育成にもその手腕を発揮していたことがわかります。
近藤真市さんがコーチをしている時代の中日ドラゴンズは投手王国と呼ばれ、結果を出し続けました。
初勝利ノーヒットノーランは近藤真市さん以外にもいた
出典:近藤真一 | プロフィール・成績・速報・ドラフト・ニュースなど選手情報 – 週刊ベースボールONLINE
近藤真市さんは初登板初先発ノーヒットノーランでした。
当然ノーヒットノーランが初勝利になります。
しかし今までで初勝利がノーヒットノーランという選手はいました。
それは広島カープに所属した外木場義郎さんです。
外木場義郎さんは生涯3回のノーヒットノーランを達成しています。
そのうち1回は完全試合です。
3度のノーヒットノーランを達成しているのは2リーグ制以降では外木場義郎さんだけで、戦前も加えると沢村栄治さんと2人だけになります。
沢村栄治さんについては山本由伸投手の記事で触れているのでよかったら読んでみてください。
外木場義郎さんは最初は主に中継ぎを任され、2回目の先発登板の時にノーヒットノーランを達成して初勝利を飾りました。
その時も元々の先発予定だったが投手が膝をケガして投げなくなり、緊急登板をして達成したようです。
近藤真市さんの時もそうでしたが、チーム事情でやむなく登板し期待されていない状態で投げて達成するということも多いのかもしれません。
プレッシャーがかかる場面では本来の力を中々発揮できない人もいるでしょうからね。
しかし、いつでもハイパフォーマンスを発揮するためにもこれからもWORKOUTをしていきましょう。