こんにちは。大関です。
今回は2回の戦力外通告を受けながら23年間プロ野球選手としてプレーした山本和範(やまもとかずのり)さんをご紹介します。
1度でも戦力外通告を受けたらそのまま引退してしまう選手は多いと思います。
また本人は現役に固執していても在籍させてくれる球団がなければ、現役選手としてプレーすることはできません。
それを2度経験し、さらにどこにも所属していないならウチに欲しいと周りに思わせてしまう魅力を備えていたということですね。
山本和範さんはどちらかというと強面な顔をしています。
眼光がするどく、身長も180cmなので街で見かけたら目をそらしたくなるような感じです。
しかし今、当時の映像を見ても笑顔が多く、人情味があって涙もろく、ファンを大事にする方だなという印象です。
そういった人柄もあって必要とされる人物だったのかなと思います。
では山本和範さんの経歴を見ていきましょう。
山本和範さんが近鉄バファローズに入団するまで
出典:山本和範 | プロフィール・成績・速報・ドラフト・ニュースなど選手情報 – 週刊ベースボールONLINE
山本和範さんは1957年に福岡県北九州市に生まれました。
生まれながらに山本和範さんは難聴でした。
打球音やチームメイトからの掛け声が聞き取りづらい状態でしたが、「野球のことは耳のせいにされたくない。ハンデなんかない」と努力をしています。
難聴のプロ野球選手は他にもいます。
中日ドラゴンズ、横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズで活躍した石井裕也選手も難聴を抱えながらプレーしていました。
しかし、石井裕也選手は投手です。
投手と内野手での連携プレーなどはあると思いますが、比較的難聴がハンデにはなりづらいポジションです。
石井裕也選手は過去に記事にしているので気になった方はこちらから読んでみてください。
そして山本和範さんも高校までは投手のポジションでした。
地元の戸畑商業高校に進学し、チームのエースとして活躍していましたが、甲子園には縁がありませんでした。
そして高校卒業後には巨人の入団テストを受けていたようです。
結果はなんと合格。
しかし、1976年のドラフトで近鉄バファローズが5位で指名をし、それを機に入団してプロ野球選手として歩んでいくこととなります。
近鉄を解雇され、バッティングセンターでバイト、南海ホークスに入団するまで
出典:24歳でクビも…バッティングセンターに通い詰めて球界代表する強打者になったのは | 野球コラム – 週刊ベースボールONLINE
近鉄バファローズに投手として入団したと書きましたが、入団1年目の最初のキャンプで野手に転向しています。
当時近鉄のコーチだった仰木彬さんが酔っぱらいながら「ピッチャークビや」と言われたためです。
仰木彬さんと言えば、オリックスの監督や、イチローさんの恩師としてのイメージが強いと思います。
のちに近鉄、オリックスの監督になり、監督を務めた14年間で11回チームをAクラス(3位以内)に押し上げる本当の名将です。
山本和範さんが野手に転向を命じられたのは、仰木彬さんの選手の鑑定眼がまだ明らかになっていない頃だと思います。
それに酔っぱらいながら命じられたのに、よく従ったなと思います。
仰木彬さんもたくさんの面白いエピソードをお持ちの方なのでいつか記事にしたいですね。
しかし、酔っぱらっていたとしても仰木彬さんの見る目は本物だったようです。
ただ、山本和範さんは最初の3年間は2軍暮らしでした。
4年目はオープン戦でも絶好調で開幕1軍を勝ち取ります。
そして開幕戦で「2番ライト」として試合に出場します。
しかし開幕戦で3三振を喫し、その後も16打席ノーヒットを記録してしまいます。
初ヒットはホームランという劇的なものでしたが、5月10日と開幕から1ヶ月もたった後でした。
この年は思うように活躍することができず、5年目も期待されましたが活躍できず、結局1982年のオフに戦力外通告をされてしまいます。
そして山本和範さんはこの戦力外通告を機に故郷の福岡に帰ろうと思っていました。
しかし、同期入団した久保康生(くぼやすお)さんに止められます。
ちなみに久保康生さんも福岡県出身です。
山本和範さんは2軍では3年連続3割以上を打っていたので、久保康生さんの目には山本和範さんはまだまだやれると映ったのだと思います。
久保康生さんは投手なので、投手の目で打者・山本和範として見たら侮れないと思ったのかもしれませんね。
そして久保康生さんは知り合いのバッティングセンターを山本和範さんに紹介しました。
山本和範さんはバッティングセンターでアルバイトをしながらプロ野球選手として復活するために練習を続けました。
すると、南海ホークスの穴吹義雄(あなぶきよしお)監督がバッティングセンターでアルバイトをする山本和範さんをスカウトしました。
というのも、山本和範さんが戦力外通告を受ける年まで穴吹義雄監督は南海ホークスの2軍監督をしており、2軍での山本和範さんの活躍は目の前で見ていたのです。
そして南海ホークスに入団した山本和範さんは打撃コーチの山本一義(やまもとかずよし)さんの指導を受けて急速に成長します。
この時の練習はとてもハードで練習のしすぎによる過労で入院するほどでした。
しかし、その甲斐もあって1軍のレギュラーを掴みます。
南海ホークス、ダイエーホークスで活躍、ケガ、2度目の戦力外通告
出典:恐怖の2番健在!元鷹のカズ山本氏が劇的幕切れ予言 – 野球手帳 – 野球コラム : 日刊スポーツ
南海ホークスでは1年目から試合に出場しますが、猛練習の成果もあって2年目から顕著に活躍していきます。
そして1985年には全試合出場もし、5月23日の近鉄戦では恩人の久保康生さんからホームランを放ち、その後も満塁ホームラン、ソロホームランと大活躍をします。
そして1986年には監督推薦でオールスターゲームにも出場します。
山本和範さんは名実ともにスター選手となりました。
そして1989年に南海ホークスは親会社が変わってダイエーホークスとなります。
本拠地も福岡になり、山本和範さんは地元出身の選手ということでとても人気がありました。
山本和範さんはファンサービスもとても熱心だった方のようです。
ナイター終わりの遅い時間でも出待ちをしているファン全員に、サインや握手や写真に丁寧に対応していたようです。
そして1994年には2番に定着。
現代野球では当たり前になりつつある「バントをしない2番打者」として活躍します。
同年には登録名も本名から「カズ山本」に変更しています。
これは自身のあだ名が「ドラ」だったのですが、これはドラキュラに似ているというところから名づけられており、子供がいじめられるのを避けるためということです。
この1994年は打率もイチロー選手に次ぐリーグ第2位の.317で年俸も2億円になり、最高の1年となりました。
近鉄を解雇されバッティングセンターでアルバイトをしていた頃から10年ほどで一気に人生を逆転させましたね。
しかし1995年は右肩を亜脱臼し、同年オフにダイエーホークスを戦力外通告されてしまいます。
近鉄に復帰、引退まで
出典:福岡ドーム開業、ダイエー初勝利=4月2日|【西日本新聞me】
ダイエーホークスを退団してからは近鉄バファローズの入団テストを受け、近鉄バファローズに復帰しています。
当時の近鉄バファローズ監督の佐々木恭介さんは若手の手本になって欲しいと思って山本和範さんを合格させたようです。
背番号はダイエーホークス時代の29を逆にした92を背負い、登録名も本名に戻しました。
復帰1年目の1996年は開幕戦で代打ホームランを放ち、86試合ながらも14本のホームランを打ちました。
そしてオールスターゲームに初めてファン投票で選出されて出場します。
オールスターゲームでは第1戦でホームランを放ち、オールスターゲームMVPに選ばれています。
この時のお立ち台でのインタビューは山本和範さんが感極まり、見ている方もとても感動します。
そして1997年も活躍しますが、1998年は不本意なシーズンとなり、1999年には年間を通して1軍に呼ばれませんでした。
1999年を最後に山本和範さんは引退しますが、1999年9月30日に1軍の試合に1試合だけ出場します。
この試合に出場する前から近鉄からは退団することは決まっていました。
球団としては引退試合の意味合いで1軍に呼んだのかもしれません。
しかし山本和範さんは現役にこだわっていました。
この日の最終打席で、なんと山本和範さんは決勝ホームランを放ちます。
試合後、ファンの声援に応えて場内を1周している時に「これ以上の感動を与えることは無理だろう」と感じ現役引退を決心したそうです。
この時の球場は福岡ドームで、ダイエーファンからも「山本コール」はやまなかったようです。
誰よりもファンを大事にし、ファンからも愛された選手だということがわかりますね。
様々な人から必要とされるためにもWORKOUTをしていきましょう。