出典:マナスル登頂-切手の専門店・ネット通販 日本郵便趣味協会
こんにちは。大関です。
世界には標高の高い山が数多くあります。
日本で一番高い山は富士山ですが、富士山の標高は世界の標高の高い山に比べるとその半分にも満たないということがあります。
それほど日本と世界の山には標高差で乖離がありますが、8000メートル峰の『マナスル』という山には日本隊が世界で初登頂をしています。
登山はWORKOUTだけでは成し遂げられません。
強靭な肉体に加え、山の知識やチームワークも必要になります。
まずはWORKOUTだけでは登頂が成し遂げられない8000メートル峰を解説していきます。
8000メートル峰とは
世界には標高8000メートルの山が全部で14あります。
ちなみに山の数え方は座(ざ)なので世界には14座の8000メートル峰があります。
この全てがアジアに集中しています。
というか『エベレスト』を含むヒマラヤ山脈に14座全て存在します。
ヒマラヤ山脈がいかに世界でも突出した存在なのかがわかりますね。
ちなみに『エベレスト』はイギリス読みで、現地の人に『エベレスト』というと不興を買うようです。
現地では『サガルマータ』または『チョモランマ』と呼びましょう。
なおこの記事上ではわかりやすいと思うので『エベレスト』と呼びます。
『マナスル』もこの14座の内の1つで世界8位の標高を持っています。
標高は8163mです。
14座の中では比較的登頂難易度は低く、テレビのバラエティー番組の『世界の果てまでイッテQ』という番組で「イモトアヤコ」さんが登頂に成功しています。
現在では『エベレスト』に登るための練習として『マナスル』を登るという人もいます。
ですが8000メートルを超える標高は酸素も薄く、天候も変わりやすくデスゾーンと呼ばれる滞在するだけで命の危険があるゾーンがあります。
比較的難易度が低いとはいえ、やはり過酷な山には違いありません。
では『マナスル』の詳細を見ていきましょう
未踏峰の『マナスル』が発見され、世界中で1番乗りを競い合う
『マナスル』はサンスクリット語の「マサナ」が語源になっています。
「マサナ」の意味は霊魂や心を意味します。
ここからふもとの村では『マナスル』は「精霊の山」として崇められていました。
『マナスル』は1950年に発見されました。
現代のようにGoogleアースで世界中をスマホ上で観覧するということはできない時代です。
まだまだ世界には人間が足を踏み入れてない場所もあった時期です。
このニュースには世界が沸き立ちます。
特に1945年に終わった第二次世界大戦の敗戦国は国の威信をかけて1番乗りで登頂を目指します。
なので日本隊は『マナスル』の人類初登頂に本気で取り組んでいました。
実際1952年には日本隊は標高5275メートルまで登っています。
さらに翌年の1953年には標高7750メートルまで登り、着実に日本隊にはノウハウが蓄積していきました。
しかし『マナスル』の初登頂時の日本隊はとんでもない障害にぶち当たります。
日本隊が来たせいで災害が起こった!?
7750メートルまで登った翌年の1954年。
今度こそ登頂する意気込みの日本隊でしたが、『マナスル』のふもとの「サマ村」に到着した時、「サマ村」の住民はとても怒った様子で日本隊に接しました。
これは前年の1953年の日本隊の遠征の後に「サマ村」では疫病が流行ってしまい、この疫病の原因は日本隊だと思ったからでした。
前年に『マナスル』に日本隊が入山し、山を踏んだために山の神様が怒ったという理由です。
これによって日本隊は「サマ村」に入ることができなくなりました。
「サマ村」を越えなければ『マナスル』に近づくことはできません。
しかし、「サマ村」の住民は日本隊に危害を加えようとする勢いで威嚇してきました。
1954年の遠征は『マナスル』に足を踏み入れることなく撤退せざるをえませんでした。
2年後のリベンジで日本隊が『マナスル』人類初登頂を達成
1956年にも『マナスル』に日本隊が挑戦します。
しかしこの時の日本隊は追い込まれていました。
というのも1956年の挑戦がもし失敗したら『マナスル』の挑戦権を他国に譲らなければならなかったからです。
もしも挑戦権を譲るとしばらく日本が『マナスル』に挑戦することができなくなり、他国が初登頂を成し遂げてしまいます。
かといって「サマ村」の妨害に遭ったら『マナスル』に登ることはできません。
日本隊は先遣隊を送ってネパール政府に入山の許可をもらえるように働きかけました。
これによってネパール政府から入山の許可を得ます。
さらにネパール政府から派遣された役人も同行して「サマ村」に入ります。
「サマ村」の住民はあからさまに怒りを見せていました。
そして日本隊は「サマ村」のあちこちで胸を刃物で貫かれたわら人形を目撃します。
日本隊は不安になりながらも「サマ村」の近くにベースキャンプを設営します。
すると「サマ村」から怒った男性がベースキャンプを訪れました。
日本隊はネパール政府からの許可証を見せますが、男は「ここはネパールではなくチベットだ。ネパール政府の言うことは聞かない」と発言しました。
仕方なく日本隊は話し合いをすることにしました。
話し合いは平行線をたどりますが「サマ村」の男性は日本隊にこう提案します。
「10000ルピーを払うかこのまま帰るか選べ」
10000ルピーは当時の日本円で50万円ほどです。
調べてみると今の時代では少なくとも100万円以上にはなるようです。
日本隊は値切り交渉を行います。
値切ったことで20万円で入山できることになりました。
この執念で勝ち取ったチャンスを活かし、日本隊は『マナスル』の人類初登頂という偉業を成し遂げました。
この時の日本隊は『槙有恒(まきゆうこう)』という人が隊長として隊を率いています。
そして頂上まで320メートルという場所にキャンプを張り、最終アタックは『今西壽雄(いまにしとしお)』隊員とシェルパの『ギャルツェン・ノルブ』という2人が成功させます。
そして2日後には他の隊員も登頂しています。
1954年には『マナスル』に足を踏み入れることもできずに撤退していたので日本の世論は冷たいものでしたが、初登頂を達成してからは手のひらを返します。
日本隊はヒーローのような扱いを受け、一躍時の人となりました。
ちなみに『マナスル』は『マナスル』に連なる『ヒマルチュリ』『ンガディチュリ』という2つの山も合わせて『マナスル山群』と呼ばれています。
『ヒマルチュリ』と『ンガディチュリ』は8000メートル峰ではありませんが、それでも7000メートル以上の標高があります。
なんとこの『マナスル山群』の3つの山の全ての人類初登頂は日本隊となっています
『マナスル』と日本は縁が深いのかもしれませんね。
ちなみに現在では「サマ村」の住民と日本人は良好な関係を築けているようです。
そしてそもそも「サマ村」の怒りを買ったのも第一次遠征時に同行したシェルパが「サマ村」の住民と喧嘩したのが原因だったようです。
つまり日本隊はとばっちりを受けていただけということですね。
しかし今では関係は改善され、「サマ村」の住民は『マナスル』を「ジャパニーズマウンテン」と呼んでいるようです。
こういったエピソードは日本人として嬉しいですし感動しますね。
アルピニストとしてメディアにも出て有名な登山家の野口健さんは日本隊のお礼に「サマ村」に学校を立てたり清掃登山をしたりしています。
ちょっとしたお礼がその後何年間も良好な関係を築けるので真心を持って人と接するのは大切だなと感じます。
今すぐ清掃登山に行きたい人は多いと思いますが、まずはWORKOUTをして体を鍛えましょう。