こんにちは。大関です。
以前、『現代では就職不可!技術革新によってなくなってしまった職業4選』という記事を書きました。
AIなどが現在のように取りざたされる前から、技術革新が起こると人間に代わって仕事をする機械が増え、人間の仕事がなくなってきました。
これは世の常かなとも思いますが、これからはAIの進化によって人間が職を失うスピードは加速するかもしれません。
そのためには体だけでなく、頭の中もWORKOUTをして成長する必要があります。
ということで以前書いた記事では扱っていなかった、失われた職業または失われつつある職業3選をご紹介します。
働く女性の憧れの仕事 エレベーターガール
まず1つめは「エレベーターガール」です。
「エレベーターガール」はエレベーターに乗ってお客さんに行き先階を尋ね、その階のボタンを押す仕事だと多くの方は認識していると思います。
しかし実はそんな楽な仕事ではありません。
「エレベーターガール」が初めて日本で登場したのは1929年の松坂屋上野店と言われています。
この頃のエレベーターはまだ自動ではなく、手動でハンドルを回し、昇降させていました。
手動のハンドル操作なので、現代のように10人以上を一気に運ぶこともできなかったと思います。
このハンドルを操作しながらフロアや商品の案内や、車イスなど手助けが必要なお客さんのケアも行っています。
そして有事の際には避難の誘導もする必要があります。
なにより現代よりも狭かったであろう箱の中で、一日中立ちっぱなしで仕事をするのはかなりの重労働だったと思います。
エレベーターは当時は設置されている建物自体が少なく、そういった場所に買い物に行けるのが一種のステータスになっていたと思います。
また、当時は社会進出をする女性の絶対数も今と比べたら全然少なく、選べる職業も少なかったはずです。
そんな中で、ピシッとしたスーツを着ておしゃれな帽子を被った女性が見える場所で働いているのは珍しかったと思います。
多くの女性が憧れたのも納得できますね。
少し甲高い声で「上にまいります」と話す姿にも憧れたかもしれません。
ちなみに「エレベーターガール」は独特なアパレル店員のような発声をしていたようです。
それは他のお客さんの話し声に紛れて聞こえないということを防ぐためにあえて出していたようです。
そんな「エレベーターガール」もバブル崩壊から人件費削減の対象となり、案内の自動化によって現代ではほとんど見なくなりました。
ちなみに男性の場合は「エレベーターボーイ」と呼ばれます。
なんとあのビートたけしさんは下積み時代はフランス座という演芸ホールのエレベーターボーイをしていたことがあるようです。
他にもジャーナリストの安藤優子さんは「エレベーターガール」の仕事をしていた時にスカウトをされて報道の世界に足を踏み入れたようです。
昔は一般的な仕事だったことがわかりますね。
夏の強い味方 氷売り
2つめは「氷売り」です。
最近はだいぶ涼しくなってきましたが、夏場は冷たい飲み物が欲しくなるという人は多いと思います。
体づくり的には常温で水を飲む、または白湯を飲む方がいいですが暑い時期に喉を鳴らして氷水を飲むととてもおいしく感じます。
しかし冷凍庫が一般家庭にまだ普及していなかった時代はどうやって冷たい飲み物を飲んでいたのか?と疑問に感じると思います。
冷凍庫がない時代には「氷売り」という職業がありました。
「氷売り」は幕末から昭和40年頃まで存在していたようです。
氷をのこぎりで適当な大きさに切り、まだ氷が溶けにくい早朝にリアカーで運んで販売していました。
現代では朝早くに氷を売りに来る人は一切見ませんね。
この職業は完全に廃れたと思います。
代わりにコンビニやスーパーなどでロックアイスを販売していますね。
また冷凍庫がない時代でも食品を冷やして保存しておきたいというニーズはありました。
食べきれなかったりするともったいないと思うのは当然の感情ですよね。
そんな時は現代の冷蔵庫型の木製の箱に氷を入れ、氷によって食品を冷やして保存していたようです。
なので氷売りの需要はとても高かったわけですね。
なんと昭和初期には「氷売り」は数千件も存在していたようです。
しかし昭和40年頃には冷蔵庫の普及率が90%を超えます。
これによって家庭でも手軽に氷を作ることができるようになり、「氷売り」は徐々に衰退していったということですね。
ちなみに日本には四季があるので冬は簡単に食品を保存することができます。
なので「氷売り」は夏限定の職業でした。
冬は何をしていたのか?というと木炭などを打って生活していたようです。
またこんな話があります。
日本で氷が注目されたある出来事がありました。
皆さんに馴染みがある「福沢諭吉(ふくざわゆきち)」さんが発疹チフスにかかって高熱に苦しんでいたことがありました。
『福沢諭吉』さんを救おうとした慶應義塾の塾生が氷を使って熱を冷まそうとします。
しかし当時の日本はまだ氷が入手しづらい時代でした。
そんな折、福井藩主の「松平春嶽(まつだいらしゅんがく)」という人物が外国製の小型製氷機を持っていることを慶応義塾の塾生は知ります。
しかし「松平春嶽」さんは小型製氷機の使い方がわからず放置していました。
塾生はこの小型製氷機を借りて大学東校(現・東京大学)の教授であり「福沢諭吉」さんの友人でもあった「宇都宮三郎(うつのみやさぶろう)」さんに助けを求めます。
そして少量の製氷に成功しました。
これによって「福沢諭吉」さんは熱が下がって回復することができ、日本で機械製氷が本格的に研究されたようです。
しかしこのエピソードにより冷蔵庫の研究が進んで「氷売り」は職を失いました。
不便な所に仕事が生まれ、便利になると仕事はその使命を全うするので仕方ないですね。
後のスターバックスか? ミルクホール
3つめは「ミルクホール」です。
これはどんなものかというと牛乳やパンやお菓子を買うことができ、お店の中には雑誌や新聞が置いてあり、注文した人は自由に読んでいいというサービスを提供していました。
今ではコーヒーを買って席でスマホを見るみたいな感じですね。
こういったことは皆さん喫茶店でやっているのではないでしょうか。
現在ではスターバックスなどが、この「ミルクホール」に代わって少し違った業態で営業をしているというイメージです。
「ミルクホール」は明治時代に流行り、関東大震災が起こる1923年くらいまでは全国で見られたようですが徐々に減っていき第二次世界大戦後にはほとんどなくなってしまいました。
原因は関東大震災や第二次世界大戦で牛乳の価格が上がってしまったためということです。
また新聞や雑誌も当時は一般的に購読されていなかったため「ミルクホール」が情報の発信地のような役割をしていました。
それが新聞購読が広まったため、情報を求めに「ミルクホール」に行く必要がなくなり、客足が遠のいたようです。
「ミルクホール」が誕生した明治時代は日本人の体質改善のために牛乳を飲むことを推奨していました。
なので駅の近辺や学生街に多く「ミルクホール」が建っていたようです。
当時にプロテインがあれば日本人の体質改善としてプロテインが推奨され、今でも「ミルクホール」が残っていたかもしれませんね。
技術が向上したり工夫によってより便利になったりすると今まであった仕事は失われることがあります。
これからもこういったことは繰り返されると思います。
どんな時代でも生きていけるようになるためにも、これからもWORKOUTを継続していきましょう。