宇宙戦艦ヤマトの原作者としてクレジットされる西崎義展さんの波乱万丈な人生

ワクセルを主催する嶋村吉洋さんおすすめの映画

こんにちは。大関です。

2025年4月11日に宇宙戦艦ヤマトの最新作の映画『ヤマトよ永遠に REBEL3199 第3章 群青のアステロイド』が上映されます。

宇宙戦艦ヤマトは1974年に放送開始をしたので50代以上の人がドンピシャの年代だと思います。

しかし現在でも人気のコンテンツとなっています。

今回は宇宙戦艦ヤマトの生みの親であり、プロデューサーの『西崎義展(にしざきよしのぶ)』さんについてご紹介します。

アニメ制作を手がけるまでの西崎義展さんについて

西崎義展さんは1934年12月18日に東京都に生まれます。

厳格な家庭に生まれたようで中学受験をし、開成中学校を受験しますが失敗し4日間の家出をしました。

高校は私立武蔵高等学校に入学し、その後東京大学の受験をしますが2度失敗し父親から勘当されてしまいます。

かなり厳しい父親ですね。

そして4年間の浪人生活を経て日本大学芸術学部演劇学科に入学しました。

浪人生活の時に「文学座」という劇団の『杉村春子(すぎむらはるこ)』さんという女優さんの演技に感動し、俳優を志します。

ここで演技を通して人に感動を届けられると思ったことがのちにたくさんの作品を生む元になったのかもしれませんね。

しかし自動車事故をきっかけに俳優の道は断念します。

そしてジャズ喫茶の司会やジャズの解説の仕事をし、1962年に音楽制作プロデューサーとなりました。

翌1963年にはオフィス・アカデミーという会社を設立します。

このころは愛称は「ザーキ」と呼ばれていたようです。

そして1968年には事業が拡大し、ヨーロッパでフランス人プロモーターの助手や舞台制作の仕事をしていました。

しかしその時に人種差別を受け、その反骨精神が宇宙戦艦ヤマトという作品に色濃く影響を与えたようです。

そして帰国後は西崎義展さんはいよいよアニメ業界に進出します。

 

アニメ制作の現場での成功と失敗を糧に宇宙戦艦ヤマトを生みだした西崎義展さん

 

当時のアニメ業界は黎明期でした。

ここにビジネスチャンスがあると感じて西崎義展さんは音楽プロデューサーからアニメ制作に舵を切ったのかもしれません。

1970年に帰国してすぐ広告代理店を通じて虫プロ商事に入社しました。

虫プロ商事はあの『手塚治虫(てづかおさむ)』さんが立ち上げた「株式会社虫プロダクション」の子会社です。

西崎義展さんは入社後、手塚治虫さんのマネージャーを務めたようです。

西崎義展さんはマネージャーとして手塚作品をテレビ業界に売り込むために奔走しました。

そして朝日放送で「ふしぎなメルモ」という作品が放送されました。

この作品が反響があり、西崎義展さんはアニメ業界で重用されるようになります。

順調なように見えますが虫プロ商事は出版業の失敗で売り上げが低迷していました。

西崎義展さんは社長代理のような要職について奔走しましたが失敗してしまい、債権者委員会に経営をゆだねる形となりました。

その後、手塚治虫さん原作の「海のトリトン」をプロデュースしテレビ放送もされ大ヒットします。

この作品は虫プロ商事のメンバーを中心に新たに作られたアニメーションスタッフによって制作されたために手塚治虫さんの影響下から離れた作品でした。

このことによって西崎義展さんと手塚治虫さんは険悪な関係となってしまいます。

そこで西崎義展さんは独立し、以前設立した会社と同名の「オフィス・アカデミー」を再度設立します。

ここで様々なアニメ制作を担当しました。

そして1974年に宇宙戦艦ヤマトを手がけます。

宇宙戦艦ヤマトは西崎義展さんが前面に立ってプロデュースをし1年がかりで企画を進めていました。

なんと宇宙戦艦ヤマトのプロデューサーの西崎義展さん、SF設定を担当した『豊田有恒(とよたありつね)』さん、主題歌を歌った『ささきいさお』さんは武蔵高等学校の同級生です。

のちに「宇宙戦艦ムサシにしておけばよかった」などと述懐しています。

宇宙戦艦ヤマトのアニメは大ヒットします。

そしてアニメ映画としても大ヒットをし、西崎義展さんは銀座で豪遊したりハーレーダビッドソンを25台購入したり、この時代の成功者のお金の使い方をしました。

そんな調子のいい時期は終わり、1980年代は映画を作っても全くヒットしなくなってしまいました。

そして1997年に自己破産となっています。

さらにその後も波乱万丈な人生を歩みますが、2010年東京都小笠原村父島の近海に遊泳目的で訪れていたところ船から転落し亡くなっています。

その船の名前は「YAMATO」だったそうです。

西崎義展さんの晩年はまさしく波乱万丈でしたが宇宙戦艦ヤマトを生みだした功績は尊敬の的となり、今回の映画でも原作者としてクレジットされています。

これからもたびたびリメイクしてたくさん作品を作って欲しいですね。

西崎義展さんの人生を振り返るとハングリーな時期はとても順調でうまくいって冗長するとつまづいているように感じます。

体作りも満足してはできず常に理想の体を追い求めてハングリーである方がいいと思います。

ということでこれからもWORKOUTを継続していきましょう。