吉岡妙林 戦国時代に活躍した女性武将

嶋村吉洋も尊敬する吉岡妙林

こんにちは。大関です。

たまにInstagramで筋トレ女子のアカウントなどを見ていると、めちゃくちゃ鍛えられていてすごいなと思う方もいます。

現代の日本はジェンダーギャップ指数こそ、世界で見たら低いですが、女性の活躍の場も増えています。

でも戦国時代に女性の活躍の場は、ほとんどなかったと言っていいかもしれません。

そんな中で活躍した女性「吉岡妙林」を紹介します。

2017年にNHK大河ドラマで「井伊直虎」という女性城主の話が取り上げられていました。


しかし、他にもたくさん戦国時代に活躍した女性はいっぱいいます。

のちに妙林尼と名乗る、吉岡妙林とは


吉岡妙林は本名などの資料はありませんが、その活躍は記されています。

彼女は元々、豊後・筑後などの北九州を支配していた大友氏の家臣でした。

そして同じ大友家の家臣の吉岡鎮興に嫁ぎます。

しかし、1578年に耳川の戦いで島津軍によって吉岡鎮興は倒され、戦死してしまいます。

その時に彼女は出家し妙林尼と名乗るようになります。

妙林尼が武器をとって立ち上がる


この戦いでの島津軍の勢いはすさまじく、臼杵城と鶴崎城を同時に落とそうとします。

大友軍は臼杵城を重視し、鶴崎城には兵は少なく、老人や女子供が多く配置されていました。

鶴崎城の指揮権をまかせられた妙林尼は、そのまま降伏し島津軍に保護を求めることもできましたが、籠城を指示します。

老人や女子供にも鉄砲を教え、落とし穴を使ったり、城を早急に要塞化し島津軍を16回撃退し和睦にこじつけます。


降伏と違い、和睦は対等な立場で休戦するのですが、当時独特な軍略を持って、武が秀でていた島津軍を相手に、自分の実力を認めさせた見事な指揮でした。

夫の仇を討つ


翌年、豊臣秀吉が20万の軍で島津討伐を開始します。

島津軍は現在の鹿児島のあたりに本拠地があるので、一度本拠地に退こうと考えます。

その時、和睦はしているとはいえ、妙林尼は元々敵だったので、当然大友氏と一緒に豊臣側につくのかと思われていましたが、「島津と酒を酌み交わした仲になったので、大友家には戻れない。一緒に薩摩に連れていって欲しい」言います。

しかし実際は、夫を戦死させた島津軍を、心の中では許していませんでした。

祝賀と称して島津軍にたらふくお酒を飲ませ、帰路についた島津軍の二日酔いの兵の首を63もとったようです。


女の恨みは怖いですね。

戦国時代の方なので、講演会などでお話を聞くことはできませんが、心情を想像するとかなり強い意志を持っていることがわかります。

こういう方はジムなどの施設がなくても、意志の力だけでWORKOUTもきっとうまくいくと思います。

まだ施設がないと、なかなか継続できない方は、心もWORKOUTしていきましょう。

嶋村吉洋も行ってみたい鶴崎城