こんにちは。大関です。
体を鍛え、多くのお金を稼いでいく職業のプロ野球では、いつも過去の実績を超える選手が現れます。
そして中には今までの常識を壊して、新しい常識を作る選手もいます。
現在メジャーリーガーとして活躍する大谷翔平選手はまさにそうですね。
今まで日本でもメジャーリーグでも活躍した人はほぼいなかった投手と野手の兼業。
前人未踏ということが、両方でハイレベルな成績を残すことがいかに難しいかを証明しています。
そして今回紹介する『辻本賢人』さんはそんな常識に挑戦した元プロ野球選手です。
どんな常識に挑戦したのかというと年齢です。
普通、プロ野球選手は高校3年生でドラフトにかかって契約してなるものなので、最年少で早生まれの場合の17歳です。
しかし辻本賢人さんは15歳でドラフトにかかってプロ入りしています。
その経歴をご紹介します。
15歳には厳しすぎるプロ野球の世界
辻本賢人さんは1989年1月6日、母方がドイツ人の血を引くクォーターとして生まれました。
そして父親はミリタリーファッションブランドのサ・リアルマッコイズの代表取締役社長をしています。
家族の癖が強いですね。
辻本賢人さんは中学時代から注目を集めていました。
中学1年生の時から2学年上のダルビッシュ投手と投げ合い、一時アメフトを経験しますが中学3年生の時には球速が140キロを超えます。
そして中学卒業の時点でプロ入りを希望しました。
普通なら指名をしないと思いますが、阪神タイガースが2004年のドラフト会議で8巡目で指名し、プロ入りすることになりました。
これには当時賛否両論になったようです。
プロでは結果が出れば大谷翔平選手のように賞賛されます。
辻本賢人さんはケガなどもあり、結果は出ませんでした。
2009年に阪神タイガースから戦力外通告をされてしまいます。
しかし野球選手を諦めることができず、2010年からは元阪神タイガースの藪恵一さんの助言でアメリカの独立リーグに挑戦する決意を固めます。
そして1から鍛えなおしハワイの『マウイ・イカイカ』というチームで活躍します。
この時の球速は151キロを記録し、速球派として充分通用するレベルになっていました。
しかしこの頃の辻本さんは一般家庭にホームステイし、1ヵ月の給料は約10万円のためイベント関連のアルバイトをしていたようです。
『マウイ・イカイカ』での活躍から大リーグ球団の『メッツ』とマイナー契約を結びメジャーリーガーを目指しますが、肘を故障し2013年に引退します。
プロの世界では結果が出ればそれが正解として扱われます。
しかし辻本賢人さんは常識に立ち向かい必死に戦ったと思います。
そしていつか辻本さんのように15歳からプロ入りして活躍し誰も破れなかった記録を作る選手が見てみたいですね。