
出典:Wikipedia
こんにちは。大関です。
日本のプロ野球ではオープン戦が始まり、今年はどの球団が優勝するのか気になる所です。
己を鍛え1年を通して高いレベルで負荷をかけ続けた先に優勝はあります。
それはファンの耳目を楽しませ、興行になるわけですがより高い人気を得るために話題となる選手を獲得することもあります。
今回は日本球界初のサイヤング賞投手という肩書を引っさげて来日した「ニューク」という選手をご紹介します。
サイヤング賞投手のニュークとは
サイヤング賞投手で日本で活躍した選手といえば最近では横浜DeNAベイスターズに在籍したバウアー投手を思い浮かべる人もいると思います。
しかしバウアー投手よりずっと以前に日本に来日したサイヤング賞投手がニューク選手です。
ニューク選手は日本での登録名でアメリカでは「ドン・ニューカム」で知られています。
1944年にニューク選手は黒人のリーグであった「ニグロリーグ」で活躍していました。
同年、メジャーリーグの球団のドジャースは低迷し、会長のリッキーはニグロリーグから「ジャッキーロビンソン」という選手を獲得します。
翌1945年にマイナーリーグでジャッキーロビンソン選手は活躍し、1946年からはメジャーに昇格します。
メジャーに昇格してからは差別など様々な障害を乗り越え、現在ではメジャーリーグの全球団で背番号42が永久欠番になるほど尊敬されています。
ジャッキーロビンソン選手の成功をうけてメジャーリーグではニグロリーグの選手を獲得する流れがおき、ニューク選手は1946年にドジャースに入団します。
そして1949年にメジャーに昇格するとオールスターに選ばれるほど活躍し、17勝をあげて新人王になります。
その後も活躍を続け、1956年に27勝をあげて最多勝、シリーズMVP、そしてこの年に制定されたサイヤング賞の初代受賞者になりました。
しかしこの年以降は成績が下降し1961年に現役引退。
故郷に帰って酒屋を営んでいました。
日本からのオファーによって現役復帰
ニューク選手が引退した1961年に日本の中日ドラゴンズは低迷していました。
1954年に『天知俊一(あまちしゅんいち)』監督の元、優勝したチームは衰えを見せ、世代交代が必要な時期になっていました。
1961年からは『濃人渉(のうにんわたる)』監督が指揮を執ることになりますが、濃人監督は新人を重用し天知時代のベテラン選手を冷遇します。
この年、中日ドラゴンズは2位と好成績を出しますがチーム内では濃人派と反濃人派に分裂してしまいました。
翌年に向けて濃人監督は反濃人派をトレードでチーム外に放逐しチームを掌握することに成功しましたが、人気選手も放逐したためにファンも離れてしまいました。
このファン離れに危機感を持った球団が大物メジャーリーガーを招致しようとして白羽の矢が立ったのがニューク選手です。
36歳になり引退していたニューク選手は、選手としてのオファーなのかコーチとしてのオファーなのかわからないまま交渉の席についたといいます。
中日ドラゴンズが選手としてのオファーと伝えるとニューク選手は「もう投げられない」と答えます。
すると中日ドラゴンズは「野手としてプレーしてくれ」と提案。
ニューク選手は打撃も良く、打者としてならと快諾し、日本で初のサイヤング賞投手の入団となりました。
実績あるメジャーリーガーが入団したことでファンは熱狂し、この年2桁借金していたチームは勢いを取り戻して最終的には貯金10の3位となりました。
個人成績は81試合出場で打率.261、12本塁打、43打点、OPS.789です。
1年ブランクがあり、6月後半からチームに合流してこの成績は充分だと思います。
そして消化試合でファンサービスとして1度だけマウンドに上がります。
4回を投げて2失点4奪三振でしたが、サイヤング賞投手の投球を見れたファンはとても喜んだと思います。
「翌年も中日ドラゴンズで活躍したい」と言っていましたが、この年限りで退団し、完全に引退となりました。
ニューク選手は選手時代からアルコール依存症で「選手生命が6~7年縮んでしまった」と話しています。
ということでこれからも摂取する食物にこだわってWORKOUTを継続していきましょう。