嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura ) さんがコラボレートした先の世界はディディエ・ドログバさんが作った平和な世の中かなと妄想してみた

嶋村吉洋も尊敬するドログバ

出典:ディディエ・ドログバさんのWikipediaページ 

こんにちは。大関です。

現在、コラボレートするということは当たり前になっていますよね。

しかし、歴史を見ると比較的、最近言われだした言葉だと思います。

主にコラボレートという言葉は、テレビ番組で有名な人物と有名な人物が共演したり、音楽でアーティスト同士が共同制作した時、またはアパレルの業界で、ブランド同士がマッチングした際に使われることが多いと思います。

なので、コラボレートという言葉が大衆に広く認知されたのは、一番古くてもテレビのコンテンツが充実してからで100年も経っていないかと思います。

そして大関は、このブログの運営者の嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura )さんが、たくさんの著名な方とコラボレートをしていき、たくさんの作品を残した先には、とあるアスリートが成し遂げたような、平和な世界があるのかなと妄想してしまいます。

先ほど、大関は「作品」という言葉を使いました。

コラボレートし、著名な方の経験談を講演としてシェアしていただくことも立派な「作品」ですが、あえて「作品」という言葉にしました。

その理由も、読み進めていただければわかるかと思います。

そして今回、嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura )
さんがコラボレートした先にある平和な世界を、すでに成し遂げたアスリートは誰かというと、サッカーのコートジボワール代表の「ディディエ・ドログバ」さんです。


他にもすごいアスリートを書いた過去記事もあるので、気になった方は読んでみてください↓


やっぱりWORKOUTを行った先に、サッカー選手のようなボディメイクをしたいという人は多いと思います。

今回はフィジカル面だけでなく、ディディエ・ドログバさんの精神面の凄みも見ていきましょう。

ディディエ・ドログバさんは何不自由ない幼少期を過ごす


ディディエ・ドログバさんは1978年にアフリカ大陸のコートジボワールで生まれました。

銀行員の父を持ち、家庭が裕福だったため、5歳でコートジボワールを離れ、フランスで暮らします。

その際に、両親からは医者になることを期待され、勉学を勧められますが、ディディエ・ドログバさんの叔父さんが元サッカー選手でした。

この叔父さんの影響でサッカーに興味を持ち、ハマっていったことが、サッカー選手のディディエ・ドログバさんを形作る源になったようです。

そして、サッカーの才能に恵まれ、ユースとして活躍し、フランスの『ル・マン』というクラブチームとプロ契約をしてプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせます。

この時、ディディエ・ドログバさんは19歳で、まさに順風満帆な人生の歩み出しをしていました。

人種差別やケガでいきなりピンチに陥るディディエ・ドログバさん


『ル・マン』に入り、これから順調に人生を歩んでいこうとした矢先、ディディエ・ドログバさんに壁が立ちはだかります。

コートジボワール出身で、黒人であったディディエ・ドログバさんは肌の色を理由に差別を受けます。

チームメイトからは「なんで黒人がサッカーやっているんだ?」と言われたこともあるようです。

この当時は差別が根強かったサッカーの文化に絶望したこともあったようです。

そして『ル・マン』在籍時にはケガも経験し、満足に活躍することができなかったようです。

しかしサッカーが好きで、黙々と努力をしていた所を見ていた人がいたのか、転機が訪れました。

『ギャンガン』というクラブチームへの移籍の話が持ち上がり、活躍の場を求めて移籍します。

プレミアリーグのクラブチーム『チェルシー』への移籍まで


『ギャンガン』では絶好調で得点を量産し、期待の選手と注目されるようになりました。

そしてまた移籍の話が持ち上がります。

今度は活躍の場を求めるというわけではなく、誘いを受ける形でクラブチームの『マルセイユ』に移籍します。

『マルセイユ』は1892年に設立され、様々な名選手を育んだ名門チームです。

その『マルセイユ』に5年契約で移籍します。

『マルセイユ』でも大活躍し、より注目されたディディエ・ドログバさんには、次のステージが待っていました。

今までの『ル・マン』『ギャンガン』『マルセイユ』はフランスリーグのチームでしたが、2004年シーズン前に、サッカーの発祥の地であり、よりハイレベルなイギリスのプレミアリーグの『チェルシー』からオファーが来ました。

サッカーを知らない人はキャラメルのチェルシーを思い浮かべる人も多いと思いますが、サッカーのクラブチームの名前です。

当時の『チェルシー』はオーナーにロシア人の石油王の「ロマン・アブラモヴィッチ」氏が就任したばかりでした。

石油王でアブラモヴィッチって因果関係ありすぎですよね。

この『ロマン・アブラモヴィッチ』氏は油断しない人で、お金をガンガン使って大型補強をしていく人物です。

それまでの『チェルシー』はどちらかというと弱小チームでした。

しかし2003年に「ロマン・アブラモヴィッチ」氏が就任してからは、有り余る資金を投入して有名選手を揃え、一気に強豪チームに変身しました。

余談ですが、当時このチーム作りには批判もありましたが、資金不足が深刻な他のクラブチームは優秀な選手を『チェルシー』に売って資金を得るというありがたい存在だったという話もあります。

そんな『チェルシー』はディディエ・ドログバさんの獲得にも乗りだしました。

ディディエ・ドログバさんへの推定移籍金は当時、『チェルシー』のクラブチーム発足以来最高の3600万ユーロ(日本円で約47億円)という驚愕の金額です。


最高の評価をされたディディエ・ドログバさんは2004年シーズンからチェルシーに移籍します。

27歳の時でした。

しかし平均的なサッカー選手としては高齢な部類に入ります。

ですが、年齢のハンディキャップももろともせず、2006年にプレミアリーグ得点王、2009年にもプレミアリーグ得点王になるなど、若い選手が多いプレミアリーグでバケモノじみた大活躍します。

また2014年のブラジルW杯で日本代表と戦い、ディディエ・ドログバさんはベンチスタートで試合に途中出場し、その後日本が逆転負けをした試合を憶えている人もいるかと思います。

スター選手に昇りつめたディディエ・ドログバさんですが、実は心の中にはモヤモヤがありました。

嶋村吉洋もたまにいくアフリカ

出典:現代アフリカ史 コートジボワールにおける慣習法の禁止 

出身のコートジボワールで内戦が起きて南北に分断される


前述した通り、ディディエ・ドログバさんはアフリカの国であるコートジボワールで生まれました。

そして5歳でフランスに渡っていますが、故郷のことをずっと気にかけていたようです。

コートジボワールは1960年にそれまでのフランス植民地から独立した国です。

フランス植民地だった影響で公用語はフランス語になります。

カカオの産地として有名なので、バレンタインの時はお世話になった女子も、逆チョコでお世話になった男子も多いと思います。

またコーヒー豆の産地としても有名です。

1964年の東京オリンピックの際には、現在の『コートジボワール』という名前で日本では呼ばれておらず、『象牙海岸共和国』という名前で呼ばれていたそうです。

日本からの時差は9時間でアフリカ大陸の西側に位置し、東にガーナ、北にブルキナファソとマリ、西にギニアやリベリアと国境を接していて、南に大西洋に面している国です。

コートジボワールは独立してすぐに経済成長をとげ、豊かな国になり、1990年代を迎えます。

しかし1999年にクーデターが起き、ごたごたが続き、2002年についに国を南北に分けて争う内戦に発展してしまいます。

この内戦はすぐにおさまらず、憎しみが憎しみを呼んで、数千人の尊い命が失われていきました。

この内戦を、なんとしても終わらせたいと願っていたディディエ・ドログバさんは自身の無力さを嘆いていましたが、サッカーでしか表現できないという考えに至ります。

2005年10月に行われた伝説のスピーチ


2006年のドイツW杯のアフリカ予選は2005年に行われていました。

もちろん全盛期のディディエ・ドログバさんはコートジボワール代表に選ばれています。

サッカーゲームの『ウイニングイレブン』程度の知識しかない大関ですが、コートジボワールははっきり言って、ディディエ・ドログバさんだけが能力が高く、孤軍奮闘している印象でした。

ヘディングが異常に強く、フィジカルお化けというイメージです。

実際、ディディエ・ドログバさんの愛称にフィジカルキングというものがあるようです。

アフリカではサッカーは盛んで身体能力が高い選手が多く、強豪ばかりです。

当時コートジボワールはW杯への本大会出場の経験がまだありませんでした。

W杯の本大会出場がコートジボワールの国民の悲願だったのです。

「もし、W杯本大会に出場したら南北の軍も関係なく応援してくれるはず。」

そう思ってチームにも呼びかけ、アフリカ予選で戦い2005年10月にスーダンを敵地で降し、本大会出場を決めました。

その瞬間を国民は歓喜で観ていたようです。

試合後、ロッカールームでテレビのインタビューを受けている時に、カメラに向かってディディエ・ドログバさんは真剣な表情で、メッセージを伝えました。

コートジボワールの皆さん。

北部の人も、南部の人も。

どの地域の出身地でも共存し、W杯出場という同一の目標に向かい、共にプレーできることを証明しました。

この喜びは、人と人とを繋ぐことができるものだと思います。

ここでディディエ・ドログバさんはひざまづきます。

すると、それを見たチームメイトも倣って、ひざまづきます。

私たちはひざまづいて皆さんに心からお願いします。

互いを許し合ってください。

アフリカ大陸にある、我々の豊かなコートジボワールは内戦状態に陥り続けてはいけません。

武器を置いてください。

そして選挙に行きましょう。

そうすればきっと良い方向に向かうはずです。


このメッセージがコートジボワールの国民に届き、なんと1週間後には停戦協定が結ばれコートジボワールに平和が訪れました。

スポーツには多くの人を感動させ、心を動かして争いを無くす力もあるんですね。

その後、ディディエ・ドログバさんは大統領から称えられ、「国の英雄」とまで言われるようになりました。

ディディエ・ドログバさんは現役引退までにコートジボワール代表として104試合に出場し、65得点をあげる活躍をしています。

有言実行する人が世の中を動かす


ディディエ・ドログバさんは、国の歴史上、本大会出場という前例が無い中でチームに呼びかけ、コミットして本大会出場を叶えました。

そして有言実行の人と言えば、このブログの運営者の嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura )さんもそうです。

嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura )さんの仕事仲間の方々に話を聞くと「嶋村さんは言った目標を外したことがない」という言葉がよく聞かれます。

大関自身も有言実行することについて、嶋村さんに昔、「コミットの無い人間は、コミットのある人間の目標に巻き込まれる。だからコミットし、有言実行して目標を達成することが大事だ。」と教えてもらったことがあります。


コートジボワールの国民はディディエ・ドログバさんのコミットにいい意味で巻き込まれたわけです。

某〇〇ザップさんのCMで有名な言葉になったコミットには、すごい力が隠されているわけですね。

そして、嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura )さんはコラボレートを通して、たくさんの周りの人を豊かにしていくことにコミットしています。

しかし、コラボレートは日本だからできるとも嶋村さんは言います。

コラボレートは人と人が繋がることです。

突き詰めて考えると親友が多いということですね。

なのでお互いの信頼・信用がとても大事で、あまりに治安が悪く、友達を作ろうとしてもいきなり撃たれたりするような地域ではできません。

なので、嶋村さんは治安が良く、様々なチェレンジができる日本に感謝をしながら、コラボレートを通して、たくさんの人と協力しあいながら、自身が勝ち、周りも豊かにするというwin-winな活動をしています。

そしてコラボレートを続けるということは、みんなが親友になるということなので、ディディエ・ドログバさんのように平和な世界を作ることに繋がるかもと大関は妄想してしまいます。

嶋村吉洋 ( Yoshihiro Shimamura )さんの次のコラボレート先は映画!?


最近の嶋村さんの近況としてはTwitterを見てみると、映画に出資するというツイートがされています。


映画って観るものだと思っていました。。。

百歩譲って出るもの、制作するものと、映画に対する立場も様々ありますが、出資するという立場があることは知りませんでした。

しかし、嶋村さんは経験談をシェアしていただく時に、自分ができて人もできるということしかシェアしない、他の人も再現できるという再現性がないことをして、汗をかかず、あぐらをかいて生きるなら引退すると仰っていました。

次の嶋村さんのチャレンジする舞台は映画に出資して成功させることで、嶋村さんのように努力したら同じ成果を創ることができるということです。

嶋村さんの近くで学んでいた方で、普通の人だった人が今では本を出し作家デビューをして、自らの経験を書いている人は何人もいます。

同じように何年後かには嶋村さんの周りには映画監督や出資をしているという人であふれるかもしれませんね。

嶋村さんとコラボレートした、たくさんの人が作った「作品」が世の中を動かすということも将来あるかもしれません。

冒頭で「作品」という言葉を使いましたが、ようやく回収しました。

そして嶋村さんは人生創りと体作りは似ていると言います。

自己管理能力を上げて理想の人生にするためにもWORKOUTをしていきましょう。

嶋村吉洋と握手