こんにちは。大関です。
以前、急造捕手の話を紹介しました。
捕手は、野球で重要かつ、特殊な技術が必要なため普通は複数人を1軍に帯同させています。
しかし、何らかの事情で試合中に捕手登録の選手を使い切ってしまい、試合続行が不可能か?と思われた時に本来は捕手登録ではない選手が捕手として急遽試合にでることがあります。
今回紹介する急造捕手として活躍した人は野球界のキムタクこと、故『木村拓也』さんです。
明日(4/7)は木村拓也さんの命日になります。
では、ご紹介していきます。
相談される前にはマスクをつけて変化球を捕る練習をしていた
木村拓也さんは1972年に宮崎県に生まれます。
そして、1990年にドラフト外で日本ハムに入団し、当時は捕手として選手登録されます。
ちなみに1990年の同期入団はヤクルトからメジャーリーガーになった高津臣吾さん。
オリックスからメジャーリーガーになった長谷川滋利さんなどがいます。
この当時の木村拓也さんは後年のように、どこでも守れて器用な選手というわけではなく、遠投120m以上と肩が強く、高校通算35ホームランと強打が売りの選手でした。
しかし、当時の日本ハムは正捕手には田村藤夫さん、控えに若菜嘉晴さんがおり、木村拓也さんの出られるスペースはありませんでした。
ここで外野手へ転向し、さらに広島カープという新天地にトレードで移籍します。
しかし、当時の広島カープは日本ハム以上に外野の層が厚く、内野手としての練習を始めます。
そしてなんとかチームにとって必要な人材になろうと努力をし、代打、代走、守備固めなど様々な役割をこなします。
さらに1999年までにはピッチャーとファースト以外の全ポジションを経験し、スーパーサブとして活躍しました。
しかしスタメンを勝ち取ることができず、新天地を求めてトレードで巨人に移籍します。
巨人は広島カープより選手層が厚く、木村拓也さんは試合に出場できるか不安だったようですが、ここでもスーパーサブとして活躍し、なくてはならない選手になります。
そして2009年9月4日のヤクルト戦。
この試合、スタメン捕手は鶴岡一成さん、そして普段、正捕手の阿部慎之助さんはファーストとして試合に出場します。
控え捕手は加藤健さん1人だけでした。
7回に阿部慎之助さんは守備交代で退き、8回に鶴岡一成さんは代打が送られてベンチに下がります。
そして控え捕手の加藤健さんが出場しますが、延長11回に頭部にデッドボールを受け、負傷退場してしまいます。
この時、ベンチには当然捕手登録の選手はいません。
しかし、木村拓也さんは「自分にしかいない」と思い、スタメンの鶴岡一成さんなどからキャッチャーミットや防具を借り、ブルペンで変化球をとる練習をしていました。
その後、監督やコーチから木村拓也さんに相談があったということなので、首脳陣に何も言われなくても自分の役割を感じて行動していたということです。
12回に捕手として出場し、打者3人をしっかり抑え、試合は引き分けでしたが10年ぶりの捕手とは思えないキャッチングでした。
その翌月に引退し、翌年の2010年は守備走塁コーチに就任していましたが、4/2の試合前にくも膜下出血で倒れ、4/7に帰らぬ人となっています。
享年37歳でした。
チームに必要な役割を追及し、努力を続ける姿勢はとても感動的だと思います。
そして健康に過ごすためにもWORKOUTをしていきましょう。