こんにちは。大関です。
また野球の話題です。
今年は野球で偉大な記録が次々と成し遂げられていますね。
そして今回の話題は日本のプロ野球ではなく、アメリカのメジャーリーグの話です。
とはいえニュースでもとても話題になっているので知っている方も多いかと思います。
アナハイムエンゼルスの大谷翔平選手が104年ぶりに投手として2桁勝利、打者として2桁本塁打を記録しました。
高校野球だと投手と野手で活躍する選手は多いです。
いわゆる『エースで4番』ですね。
しかし、プロの世界で通用するには投手と野手を兼用するのは体の負担が大きすぎます。
なので最近の日本のプロ野球、そしてアメリカのメジャーリーグでは投手と野手は分業して行うのが常識です。
投手と野手という、普通の選手の2倍の練習量をこなすということを考えても、とてもタフなことだと思います。
大谷翔平選手がプロ入りする時も大きな議論を巻き起こしました。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざもありますが、投手か野手かどちらかを選ばないと中途半端な選手になってしまうという危惧も抱いた人もいます。
しかし野球好きは総じて「二刀流というロマンを成し遂げて欲しい」と願ったと思います。
そのロマンを現地時間の2022年8月9日に成し遂げました。
大谷翔平選手の記録は104年ぶりですが、104年前に2桁勝利と2桁本塁打を記録したのは【野球の神様】と言われた『ベーブルース』です。
ベーブルースはどんな選手だったか見てみましょう。
元祖二刀流、野球の神様と謳われたベーブルースとは
ベーブルースは1914年から1935年までメジャーリーグでプレーした元野球選手です。
投手としては最優秀防御率を記録し、打者としてはシーズン50本塁打をメジャーリーグで初めて記録した選手になります。
しかし野球のエリートというわけではありませんでした。
ベーブルースは9人兄弟でしたが過酷な幼少期を過ごし、兄弟の中で成人したのはベーブルースと5歳年下の妹だけという状態でした。
過酷な状況はベーブルースを非行に走らせるには充分でした。
父親はベーブルースを更生施設を兼用している全寮制のセント・メアリー少年工業高校に送ります。
ここでカトリックの神父であった『マシアス・バウトラー』という人物に出会い、野球のルールを教えてもらいます。
ここで野球にのめり込み、セント・メアリー野球部のエースになりました。
そして1913年にメジャーリーグのスカウトの目に留まり、マイナーリーグのボルチモア・オリオールズに入団します。
ちなみに現在はメジャー球団で同名のボルチモア・オリオールズが存在していますが、この時のオリオールズとは無関係です。
ここで初めて『ベーブルース』と呼ばれることとなります。
というのもベーブルースの本名はジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアです。
非行に走り、世間知らずで子供じみていたのとベビーフェイスだったのでチームメイトに「監督の新しいベーブ(赤ちゃん)」と言われ、ベーブルースと呼ばれるようになりました。
入団してすぐにレッドソックスにトレードされ、1914年にメジャーに呼ばれますが成績は残せずマイナー落ちを経験します。
この当時、ベーブルースは投手専任でした。
しかし試合に出たかったので「投げれないなら打てばいい」ということでバッティングの練習をし始めます。
つまり本格的に打者として練習したのはプロに入ってからということになります。
そして1915年にメジャーに呼ばれると先発投手として18勝8敗、防御率は2.44という好成績を残します。
同年は打率.315で本塁打も4本打っています。
1916年は投手として23勝12敗、防御率1.75で最優秀防御率を獲得しています。
そして1918年に13勝7敗と本塁打11本を記録し、2桁勝利と2桁本塁打を記録する選手になりました。
11本の本塁打は少なく感じますが、当時は11本で本塁打王になれるほど2桁本塁打を打つことが難しい時代です。
しかしベーブルースはその当時の野球の常識を壊しました。
1919年には29本塁打という当時のメジャーリーグ記録を達成しました。
そしてヤンキースに移籍した1920年には打率.376、本塁打54本という異次元の成績を残します。
さらに翌年の1921年は打率.378、本塁打59本、打点168で本塁打王と打点王になります。
というか打率.378で首位打者になれないのも異常ですね。
この年に当時の通算本塁打記録138を抜き、最終的に714本の本塁打を記録します。
最終的に投手として94勝46敗で防御率2.28でした。
打者としては打率.342、714本塁打、2210打点を記録しています。
どちらかというと打者としての記録が素晴らしいですね。
ベーブルースの当時の映像を見ると少しお腹が出ていてパワーはあっても俊敏に動けなさそうですが、投手としても成績を残しています。
こんなとんでもない選手と日本人の大谷翔平選手が比べられていることを考えると嬉しいですね。
まさに超人 大谷翔平伝説を紹介します。
大谷翔平選手はベーブルースとは真逆といってもいいほどエリート育ちです。
193cmで102kgというスラッとしながらも筋肉が詰まったフィジカルをし、高校時代は学業の成績も常に10番以内でした。
運動能力は小学生の頃から他を圧倒しており、打球を引っ張ると飛びすぎるので流し打ちを指示されていたようです。
西武や巨人で活躍した清原和博選手も高校時代に飛ばしすぎ、先輩に目を付けられたことで流し打ちを習得しました。
流し打ちは強制で身につく技術なんですね。
そして小学生で投手としても他を圧倒しており、110キロの球速を出しています。
さらに高校時代は160キロを計測し、プロでは165キロと成長が止まりません。
大谷翔平選手の超人ぶりがわかる逸話もたくさんあります。
まず腕力があり、バレーボールを体育館の床におもいっきり叩きつけるとバウンドで体育館の天井まで跳ね返ったという話があります。
さらにランニング中に遊びで走り幅跳びをしてみたところ、走り幅跳び用のマットを跳び越えるという驚異の跳躍力を誇っていたようです。
そして、高校時代に水泳部の顧問から水泳でオリンピックを目指せるほどという太鼓判を押されています。
ちょっと完璧すぎますね。
こういった人は実は絵が壊滅的に下手など、人間味を感じられる部分があるかと思いますが、絵も上手です。
スラムダンクを書いたときにチームメイトから絶賛されるほどだったようです。
完璧すぎです。
このスペックに加えて足も速く、日本人メジャーリーガーで初のサイクルヒットを達成しています。
サイクルヒットは1試合の中でヒット、2塁打、3塁打、本塁打を打つことで、パワーとスピードが求められます。
そんな大谷翔平選手は二刀流として有名ですが、実は無刀流としても話題になったことがあります。
2016年の日本シリーズの日本ハム対広島カープで同点の8回に代打としてネクストバッターズサークルに大谷翔平選手が立ちました。
しかし実際は相手にプレッシャーを与えるだけでベンチに戻り、その回に日本ハムは6点を奪います。
実際には試合に出ていないことからネットでは『見せ大谷』や『無刀流』と呼ばれて話題になりました。
そして2022年からは通称『大谷ルール』がメジャーリーグに誕生しました。
今までは打順に入った投手が降板すると、そのままベンチに下がるルールでしたが、『大谷ルール』では投手は降板しても指名打者としてプレーすることができるというものです。
日本の常識を変え、メジャーリーグの常識を変え、メジャーリーグのルールさえ変えてしまった大谷翔平選手にこれからも目が離せませんね。