出典:女剣士、中澤琴
こんにちは。大関です。
今回は誰も剣の腕前で敵わなかった伝説の女剣士、中沢琴という人物について書いていきます。
今までも強い女性やWORKOUTをしている女性を取り上げているので、気になる方はチェックしてみてください。
話は変わりますが、今年の野球では様々な記録が生まれました。
最近ではヤクルトスワローズの村上宗隆選手が三冠王を達成しました。
三冠王は野手の打撃主要タイトルを全て獲るということですから、今年の村上宗隆選手には誰も敵わなかったということになります。
以前取り上げた、村上宗隆選手の5打席連続ホームランの記事もあるので、気になる方はチェックしてみてください。
全ての競争相手に自分の実力で勝って、その上を行くというのはかっこいいですね。
ちなみに三冠王は今まで8人だけしか達成者がおらず、12回しか達成されていない記録です。
三冠王が記録されるのも18年ぶりなので、すごい記録を目の当たりにしているということです。
そして誰も敵わなかったという中沢琴さんの話に戻ります。
敵わなかったというのは剣を持って対峙して撃ち合って敵わなかったという事です。
つまり腕っぷしですね。
中沢琴さんに対して戦いを挑んだのは彼女に結婚を求める男達でした。
つまり将来結婚するかもしれない相手を、その腕っぷしで全て薙ぎ払ったということです。
では中沢琴さんの生い立ちをみていきましょう。
最強の女剣士 中沢琴さんの経歴
中沢琴さんは現在の群馬県に生まれます。
生年はわかっていませんが、没年は1927年なので1845年頃に生まれたのかなと思います。
実家が法神流の道場をしていた影響を受け、幼い頃から剣術を習っていました。
中沢琴さんには兄がおり、兄とともに実力を蓄えていったようです。
そして道場主の父の力量を超え、世のため人のために剣術の力を使おうと兄とともに上京しました。
1863年のことでした。
そして浪士組という組織に入隊しようとします。
浪士組はのちに新撰組を結成する近藤勇や土方歳三、沖田総司らも参加していた隊です。
今は有名な役者でも昔の映画を見てみたらすごいチョイ役で出演してて、下積み時代を感じるみたいな感じでのちのスターがたくさん所属していました。
しかし、時代は幕末です。
女が兵隊になろうとしても「女が来るところではない」と首を縦に振ってはくれません。
現代では女性兵士が飛行機に乗ったり、銃を持って戦ったり、戦争は必ずしも良いものではありませんが、女性が守られるだけの存在ではなくなってきています。
中沢琴さんはその先駆けでした。
「女だから入隊させてもらえない」と思った中沢琴さんは一計を案じます。
それは『男装する』ということです。
当時としては170cmという高身長だった中沢琴さんは髪を結って男を演じました。
そして兄と一緒に入隊するために「弟」だと言い張ると入隊が許可されました。
しばらく浪士組で活躍した後、近藤勇や土方歳三、沖田総司が新撰組を結成したように、中沢琴さんも浪士組から卒業します。
そして兄とともに新徴組にという組織に入隊します。
新徴組は幕府の警備を担当する組織です。
なので戦闘は常に激しいものでした。
しかし中沢琴さんは見事な剣さばきで死線をくぐり抜けます。
そんなある日、中沢琴さんは奇妙な問題を抱えることになります。
男装をしていますが、容姿端麗な中沢琴さんに男性の隊員が恋をしてしまうということが起きました。
もちろん男装していることがバレているわけではありません。
男性隊員は男性として中沢琴さんを見て、恋に落ちてしまっていたわけです。
江戸時代は男色は武士の嗜みであったということもあるので、何もおかしなことはありませんが、男装が見抜けていないのはおもしろいですね。
話は脱線しますが、男色は『武士』の嗜みでした。
つまり農民には男色は広まってなかったのかなと思います。
というのも豊臣秀吉の逸話でこんなものがあります。
豊臣秀吉は農民の出で天下人になった日本では唯一の人物です。
豊臣秀吉は出世して武士の仲間入りを果たしました。
なので家来は武士の出の人間もいたわけです。
ある時、家来が気をきかせて美少年を世話係にして部屋を退出しました。
美少年と二人きりにさせ、男色を楽しんでもらおうとする家来の心遣いです。
美少年も自身の役割をわかっていました。
すると豊臣秀吉はその美少年にこう声をかけました。
「お前に姉か妹はいるか?」
豊臣秀吉は生粋の女好きで男色の傾向は一向になかったというお話です。
当時の常識を知ることで何の変哲もない会話が面白くなるという好例かなと思います。
話を戻します。
同じ隊の男性隊員から好意を向けられる毎日でしたが、それは警備で外を見回っている時も同じでした。
見回っている時は町の娘からとにかくモテたようです。
江戸の町娘の追っかけや取り巻きができてしまうという状態でした。
今、中沢琴さんが生きていたら宝塚歌劇団でトップスターになったでしょうね。
しかし、風雲急を告げます。
1868年に薩摩藩が江戸を警護していた新徴組と庄内藩の屯所を襲撃したのでした。
この戦いは拡大し、後に戊辰戦争と呼ばれる大きな戦になります。
中沢琴さんは新徴組隊士として庄内藩とともに江戸薩摩藩邸の襲撃に参加しました。
中沢琴さんは兄弟で大活躍をしましたが、足にケガをしてしまいます。
ケガの影響もあって剣さばきが鈍り、徐々に劣勢に陥ってしまいます。
庄内藩と共に最後まで戦った中沢琴さんでしたが、庄内藩が降伏し新政府軍に兄弟揃って捕まってしまいます。
普通、戦争に負けたら女子供はひどい目に遭うというのがセットですが、新政府軍の西郷隆盛は寛大な措置をして中沢兄弟は釈放されます。
二人は故郷に帰ることにしました。
結婚相手は自分よりも強い男と
中沢琴さんは故郷に帰って、剣を置いて普通の女性として生きようとしていたかもしれません。
ただ、当時の普通は結婚して旦那の家に入り、子供を産んで家事をこなすというものです。
そして婚期はだいたい10代が普通です。
中沢琴さんは婚期を戦いに明け暮れていたので、年増と呼ばれて敬遠される年齢になっていました。
しかし、美しく強い中沢琴さんにはたくさんの求婚者が現れたといいます。
男装していても容姿端麗だったので、普通の恰好をしたら玉の如く輝きを放ったのでしょうね。
しかしたくさんの求婚者から満足がいく1人を選ぶことができず、中沢琴さんはこんな条件を提示します。
『剣術の試合をして、私に勝った男と結婚する』
すると腕っぷしに自信がある男が次々と挑戦してきます。
しかし道場での試合だけでなく、実戦を幾度も経験している中沢琴さんに敵う男はいませんでした。
結局、誰も中沢琴さんを倒すことができず、中沢琴さんは一生を独身で過ごし、上述のように1927年に天寿を全うしています。
お墓は生まれ故郷の群馬県利根町穴原にあり、今でも歴史ファンは足を運んでいるようですね。
結婚をしても、自分らしく生きれないと中沢琴さんは思っていたのかもしれませんね。
そして自立した女性はかっこいいと思います。
現代では腕っぷしは、普通に生きていく上ではあまり意味がないものになっています。
しかしWORKOUTをして己を鍛えることで内面の美しさや魅力がでてくることはありますよね。
これからもWORKOUTをして自身を磨き続けていきましょう。